1,いわし 太鼓と出会う
2,いわし 高校へ行く
3,いわし 鬼太鼓座に入る
4,いわし チャンゴに出会う
5,いわし 鬼太鼓座を去る
6,いわし 石見(いわみ)へ行く
7,いわしの神楽修行
8,いわし 韓国へ行く
9,いわし かんなぎ座を結成する
10,いわし ソロ活動を始める
11,いわし 習い事を始める
12,いわし 先生になる
13,いわしの民族音楽修業
14,いわしの音楽趣味
15,いわし こじまあや に出会う
16,いわし アルジャブラ結成に参加
17,いわし 「うずまき」に参加
18,テイネン タイショク
19,湘南打樂研究所
20,いわし レコーディングに参加
21,太鼓少年30歳になる
22,いわし 逗子へ行く
23,いわしの正念場
24,名義変更
25,器用 VS 不器用

25,器用 VS 不器用
人には器用な人と不器用な人の二種類ある。 私はどちらかというと器用な方なので暗譜も早いし、少しがんばれば すぐに人と合わせて演奏することも出来る。 しかし、人を指導、育成する時は両方に対応させる教え方が別々に必要になる。 私の場合 器用な人には無理をさせる。 どんどん負荷を増やしていくことで常に必死にならなければいやらしい演奏になってしまう。 よく見る光景として、 「どうですか? 自分うまいでしょ フフン」 と言う状態で、器用な人間が最も気をつけなければならないポイントだ。 一方、不器用な人間が陥りやすい状態として 出来もしないことに果敢に挑んで失敗する 状態だ。 見ている方としては、ヒヤヒヤする瞬間だ。 なぜもっと自信を持って出来ることをやらないのか・・・と。 「自分も器用にカッコヨク決めたい。」 その気持ちは残念ながら報われることはない。 音楽の前には人は決して平等ではないから しかし、平等でないが故に道はいくつも開けている。 器用な人間には決して通ることが出来ない道がある。 それを共に見つけることが私の課題でもあり、楽しみでもある。 器用な人は120%自分をいじめることで光り輝き 不器用な人は70%くらいの力で開き直ることで光り輝く 不思議なことに、私の出会った不器用な人の多くは感情の起伏が大きい代わりに 開き直りの強さをもっている。 そして、その強さを発揮したときの破壊力は器用な人など相手にならない。 その境地へ誘うためには徹底的に惚れ込まなければいけない。 信じなければいけない。 不器用な人が持つ最大の魅力は、信じていれば決して裏切らないと言うことだ。 曰く 「信じて負けるは永遠の勝利」
24,名義変更
Asian Percussion Lab.(アジア打楽研究所ね) 外国の友人に「お前の音楽を聴かせてよ」 と言われていて、英語のページも何か作りたいな と思っていたので、 丙(ひのえ)の名前を変えました。 曲も生かさず殺さず、新しく違うバージョンで取り直す予定です。 第21話で これからは神楽、韓国音楽、インド音楽、アラブ音楽、日本民謡その他諸々の音楽を糧に、 新たな日本の太鼓音楽を構築し、誰にでもわかりやすく、かつ奥の深いものを作り出さなければいけない。 と書いたけど、まずは 和太鼓、ダラブカ、チャンゴ、タブラ、などアジアの色々な打楽器を組み合わせて "アジア打楽"というとてつもなく大きな括りを作ってみて。 そして、多少胡散臭くてもそれをどんどん発表していこう。 このAsianPercussionLab.で和太鼓の民族音楽化への階段を少しずつでも 上っていきたいと思います。 応援よろしく!
試聴はこちらから〜YouMusic〜 Asian Percussion Lab. へはこちらから
23、いわしの正念場
今までのいわしの音楽活動を振り返るこのコーナーも段々「今」に近づいてきました。 今、すなわち、2008年 31歳 いわしの最新プロジェクトは30歳から始めた丙(ひのえ)という活動です。 これは、自分一人で全てを作る完全自己完結型の活動で、基本は録音作業になります。 久しぶりに自分と正面から向き合って見たいと思います。 自分の中にある「完璧な世界」を実現させたいと思います。 ありったけの技術と発想を全て注ぎ込みたいと思います。 今はまだ、機械の扱いに手間取りながら古いものを試し録りしている状況ですが、早くもっと新しいことをしたい。 その為には今までとは違う時間の使い方や、自分のポジションの置きどころを考えなくてはいけない。 そして何より、今までの太鼓の叩き方や曲構成、楽器の選択にいたるまで細かい調整が必要で非常に難しい。 何度かトライはするものの、どうもいけない。 漠然としたイメージが一向に具体的になってくれない。 「いやー 太鼓は見るものでしょ」 「所詮趣味でしょ」 と笑う声。 「くやしい。」 そんな100ヤバメートルの逆風で、進歩どころか牛歩状態。  いわし 久しぶりに困っています。 初めて太鼓を叩いて褒められたときから、どんどん調子に乗って、プロの世界をみて、 ドロップアウトし、0地点からひたすら修行期間を経て来た太鼓少年も、ここが正念場。 「つらい。」 でも、もうプロとかアマとかなんて気にしない。 コレがオイラのスタイルだから。 だって どんなに突拍子もないことでも上手くやってこれたじゃないか どんなに難解なリズムも練習して叩き切ってきたじゃないか どんなに大変でも多くのものを産み出してきたじゃないか 晴れ男 太鼓少年いわしの行き先は いつだって 晴れわたっているのだ そして 太鼓少年いわしの目は いつだって前方やや上を真っ直ぐに見ているのだ 笑いたい奴は笑え  俺を信じる奴はついてこい!
22、いわし 逗子へ行く
逗子開成高校 という頭の良い進学校がある。 そこに和太鼓部があり、大会などでもいまいち成績が振るわず、部員も悩んでいるという。 そこで、新しい指導者の相談を受けたいわしの母校の顧問から 「いわし 行って見てこないか?」との話が回ってきて、行くことにした。 初めに顧問の先生に会い打ち合わせをすることになったが、指導方針について腹を割って 話したかったので飲み屋で会うことにした。 そこで決まったのが 「大会での成績よりも生徒の個性を大事にする。」 と言う事だった。 そして、始まった月に一度のいわしの指導。 最初に感じたのは、「元気がいい」と言う事と「下手である」と言う事だった。 「困ったな 大変な事を引き受けてしまった…」とさすがのいわしもちょっと困惑。 でも大丈夫! オイラが来たからにはカッコイイ太鼓を教えてやるよ。 相洋高校では、あまりにも先輩後輩関係が厳しいので何を言っても 「ハイッ」という答えしか帰って来ないのに比べて、かれらは解らないことは素直に 「え、なんでですか?」 と聞いてきてくれるのでこっちもやりやすい。 曲はだいぶ古い感じの物がおおかったので新たに2曲は私が作ったものを使うことにした。 他には既存曲の「雷華」や「三宅」も大幅に改造し、生徒には速過ぎる程のスピードに仕上げた。 近年の高校和太鼓はとてもレベルが高く、独自のカラーを作り出すのがとても大変。 だから、その年の目標は 「神奈川最速」 を目指して、多少荒っぽくてもいいから限界まで速度を上げることを目標にして、一体となって頑張れた。 そして迎えた夏の和太鼓選手権。 大会にはこだわらないと言いながらも、やはり大きな舞台は緊張する。 生徒には「胸を張って誇りをもって行って来い」と送り出し、見事に最高にして最速の演奏をしてきてくれた。 もちろん結果は賞とは無縁だったが、何処よりも速いスピードで何処よりも一人一人の顔が良く見える演奏だった。  胸を張って叩いてきた彼らは胸を張って帰ってきてくれた。 いわし、顧問 共に大満足で、言葉にならなかった。 やってきたことが間違っていなかったと生徒、先生と皆で確信した。 ハッキリ言って私は審査員など信用していない。 それよりも、現場の教員や生徒が持っている理想をそのまま舞台上に出したいと思う。 地元の高校生が商店街で演奏をするような初々しい雰囲気をそのまま舞台上に出したいと思う。 上手い部員を選りすぐって難しい曲をやりこなし、いい成績を残すかどうかよりも 単純な曲でも、自分が活き活きとソロをとって目立てる方が断然楽しいと思うし、人のソロを囃す事の大切さも解ってもらえると思う。 だから、私はどんなに下手でも全員にソロを叩かせる。 「舞台の上からの景色を見て来い」と言う。 自分だけが注目されているという快感こそが芸術の本質であり、それを手軽に経験させる事が 部活動の任務であり、素晴らしさなのではないかと思う。 一年を過ぎたあたりからは、こっちから細かく言わなくても、一を言えば十を知る状態で、安心して見ていられた。 皆もフレンドリーになってくれたのが何よりも嬉しかった・・・。 その後、冬の大会を経て4月に引退演奏会を学校の体育館で行った。 演奏会に向けて、かれらは「男子三日会わずんば活目して見よ」の如く、素晴らしい勢いと情熱をもって練習をしていた。 僅か数か月の間に自分たちで何曲も曲を作り上げ、細部にわたってしっかりとこだわりをもっていた。 本番当日は、一つ一つの曲に一人ひとりの思い出があり、何度も目頭が熱くなった。 「お前 あんなにヘタッピだったのに伸び伸び叩いてるなー」 「がんばれ! もう一息 バテルナ!」 「もっと速く、もっと速く! んー やり過ぎ!」 「泣くな 泣くな いや 泣いてしまえ」 と、心の中で舞台上の彼らに語りかけながら見ていた。 演奏終了後の皆の顔は、本当に清々しく、直視できないくらいだった。 (だってまともに見たら泣けちゃうんだもん) また、いつも無理難題や毒舌吐きまくってたのに、思いもかけず寄せ書きの色紙まで貰って 最後の挨拶時は何故か突然「たーろーう! たーろーう!」と太郎コールまで飛びだした! 本当にやってて良かったと思った。 男子校っていいな。 って改めて思った。 (最初は なんだ、女子いないのか って思ったけどね) そして、世代が代わり次の代へ 彼らもまた違った個性を持っており、私が目指す 「一人一人の顔が見える演奏」  をとてもよく理解して体現してくれている。 曲も彼ら流にアレンジを変えていい状態にある。 また、毎年それぞれの世代でTシャツを作っており、今年作ったTシャツの背中には 部員全員の名前と顧問の名前、 そして「コーチ 岩田太郎」と書いてあった。 急に鼓動が速くなった。嬉しかった。 これは私の大切な宝物になると思う。 ありがとう。 そんな彼らも 数か月先には引退を控えており、さらに次の代へ移っていく。 そして、私もまた いつか去っていく時が来る。 みんなとの一期一会を大切にして、少なくとも「また太鼓たたきたいなぁ」という 良い思い出になるような部活作りに協力できたらいいな と思う。
21、太鼓少年 30歳になる。
30歳になった太鼓少年いわしはこう思った。 「このままでは民族楽器奏者になってしまう。 そろそろ和太鼓帰りを真剣に始めよう。」 もちろんこの現状は自然になったものではなく、意識的に20代の全てを使って 勉強するつもりだったからある意味計画通りだった。 ただ、もっと割り切って「これは勉強だからね」という具合でやるつもりが思いのほか楽しくてのめりこみすぎたな。 という感じ。 でもこれからは神楽、韓国音楽、インド音楽、アラブ音楽、日本民謡その他諸々の音楽を糧に、 新たな日本の太鼓音楽を構築し、誰にでもわかりやすく、かつ奥の深いものを作り出さなければいけない。 それが、多くの先生や師匠、諸兄への恩返しでもあり、自分に与えられた使命でもあると思う。 僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る。 進メ 太鼓少年 ソノ使命ヲ全ウセヨ!
20,いわし レコーディングに参加 
音楽を演奏すると、共演者やお客さんに、どこかで習ったんですか? と聞かれることがとても多い。 私の場合は、 「お囃子、田耕、美波秀輔、韓国で…」などそれぞれで答えがしっかりあって、 「独学ッス」というものは殆どない。 そうすると、「さすが○○出身は違う」とか「基礎がしっかりしてる」などと言っていただき 今でも師匠や先生のお陰だなぁと思う事が多く、一体どこに足を向けて寝れば 誰にも足を向けずに寝れるのか解らないほどだ。 ダラブッカでは 「若林忠宏師匠の弟子です。」(最近ご無沙汰だけど。) と答えると、その道の人は 「あー 若林さんのお弟子さんなら安心だ」 と言うことで、単発物のライブに誘っていただくことが何度かあった。 実験的録音プロジェクトの「MundoMusico」もそのうちの一つだった。 民族楽器やエレキギター、ジプシーギター、フラメンコ、ヴォーカルなどを使ったプロジェクトで、 周りを一流のミュージシャンたちに囲まれて殆どぶっつけ本番で 最高の録音環境の中で作業はすすめられた。 太鼓は音がうるさいのでスタジオからは出されて廊下にマイクを立ててヘッドホン で確認しながらの録音。 普段アイコンタクト命で演奏しているいわしにはかなりの冒険だった。 本格的なレコーディングにしっかりと参加するのは初めてだったので勝手が解らなかったが 皆で一斉に演奏する曲は、自分の出来ることを確実にやる事だけを考え、周りの足を引っ張らないようにヒヤヒヤだった。 一人ずつ別々の録音の時は「一発で決めないと 絶対ハマる」と思い少なくとも最初の3回以内に 決める覚悟でこの上ない集中力を使った。 特に左右に音を振って組み合わせるリズムは奇跡的に上手く行った。 今回の経験は、いわしにとってとても良い経験だった。 ・ノリだけじゃなく正確な音やリズムが絶対的に必要 ・他の人の音を敏感に察知し、反応することが必要 ・一発で決める集中力が必要 ・デジタルテクノロジーで結構助けてもらえる ・自分の出したい音色を主張する ・わからないことはちゃんと聞く ・自信を持つ CDは試行錯誤と善意により完成し、とてもエキサイティングな出来になった。 (販売してます。欲しい人は私まで。) また、それだけではなく、リーダーの黒澤氏にはその他にも色々と声をかけていただいた。 古楽の演奏では、今までで最も小さな音で太鼓(枠太鼓)を叩くことになり 改めて太鼓って意外とデリケートなんだなって思った。 トルコの弦楽器サズのバンド「サズーズ」はごくたまに活動をするバンドらしく 綿密な打ち合わせよりも合奏の楽しさをフルに表現した楽しいバンドで、音楽を楽しんでもいいのか・・・ と思わせてくれるバンドだった。 またその中のメンバーが大磯で働いているという、奇妙な出会いもあった。 そして、現在鎌倉の長谷でカフェを営んでいる黒澤さんとのデュオはその場の空気を見て ライブをやるという師匠と同じスタイルの演奏形態で、やっぱり僕はこのスタイルが好きだな、 と改めて思った。 その年は他でも様々なイベントやセッションがあり、様々な出会いがあった。 そんな風にしていわしのライブは増えていき、年間約40回ほどになっていた。 しかし30歳になったいわしは 和太鼓帰りをし始めた。
19, 湘南打樂研究所
湘南打樂研究所は、初めは現代和太鼓への皮肉と反骨精神でスタートした。 この どこまで本気なのか解らないような名前を付けたのには いろいろな想いがあってのこと。 それは、○○太鼓、とか○○保存会とか龍、響、鼓、舞、花、とか、 仰々しい名前をつけて閉鎖的にやっていてはいつまでも和太鼓は 他の音楽から馬鹿にされっぱなしだし、 良い気になっているのはそれぞれの会にいる腹の出た会長さんくらいで、 若い人達はどんどん離れて行ってしまう。 実際、民族音楽の世界や舞台スタッフの間では 「あぁ 和太鼓ね 音でかいね。」 と冷笑をもって迎えられているし、伝統芸能の世界では最近の太鼓はうるさいばっかり で駄目ねぇ。と白い目で見られています。 そんな現状も知らずに、それぞれの会で胡坐をかいて少し上手くなれば 指導者になって、その会からは一歩も外に出られない。 それではいつまでたっても孤立していく一方だよ。 でも、一歩外に出れば学ぶべきことは山ほどあって、もっともっと和太鼓はいい方向へ向かえるんだ。 初めのころは賛同者を求めて藤沢や小田原方面の色々な太鼓グループへ 「一手ご教授ください。」 と乗り込んでいき、そこで有望な若者をGETしようとしていたけれど、 その若者が既に閉鎖的な空気で育ってしまい、今では若いくせに指導者になっていて 自分の技術欲を高めることから離れてしまっているケースが多かった。 当然、いくら誘っても来てくれなかった。 演奏に誘っても、「ギャラは?」と聞かれ、丁重にお断りさせていただいたこともあった。 技術は低く、プライドは高い。 いつまでも こんな人達を相手にしていられない。 初めはそういった気持ちを解放させるために研究所の構想を思いついた。 2004年からスタートして、2007年現在まで、試行錯誤を重ねて色々な試みをしてきたが ようやく とるべき方向性が解ってきたような気がする。 それは、太鼓と言えばグループで演奏をすることが主流になっている中、 あくまでも個人と太鼓の為の活動をしていくということ。 お囃子出身者と組太鼓出身者では太鼓に対する思いもスタイルも全然違うけど お互いが教えあい、盗みあい、それぞれの消化の仕方をして自分のスタイルを作り出し、 それをまた、思い思いの場所や人と一緒に演奏していけばいいと思う。 こんな感じ↓ また、内容に関しても ・日本の伝統的なお囃子や神楽、歌に踊り ・韓国、インド、等の超難解と言われる音楽の勉強 ・今の時代に合わせた現代和太鼓曲の創作 をバランスよくやることで、柔軟で幅の広い太鼓を身につけられるようになると思う。 こんな感じ↓ 今までに、3時間耐久和太鼓リレーや韓国音楽、太鼓曲作り、神楽、お囃子、民族楽器同士の共演など 色々な企画をやってきて、だんだん参加者も研究所の方針が解ってきたようだ。 何より心強いのが、いつも参加してくれるメンバーで、 蒸気機関のような熱い太鼓娘のあゆみさんは、研究所の原動力となっていて 私と同じ路線のマルチ奏者の洋平は研究所を最もよく理解してくれていて チャッパ娘の意外な変人ゆかりさんは妙な企画をいつも喜んでくれていて 何とも頼もしい。 他にも超絶技巧の浩司、鍵和田、や 太鼓を本当に嬉しそうに叩く松竹さん。 すでに「オヤジの太鼓」の域に達している同郷の多一 そしてその双子の妹 熱血田島兄弟+ヒザワ 皆の兄貴分の永井さん そしてこれから、何かをやらかしてくれそうな若者たちに囲まれて、 皆から刺激を受けながら活動をしている。 そこにはいわしの他にも「太鼓少年、太鼓少女」がたくさんいる事が何より嬉しい。 今 私の夢は何かと聞かれたら、迷わずこう答える。  【湘南打樂研究所を建てること】 防音で、資料や楽譜や太鼓がいつもそこにあって、誰にでも利用が出来る場所。 太鼓馬鹿は徹底的に勉強出来て、時々叩きたいだけの人も楽しくたたける そんな場所になる事が出来ると思う。 そこから和太鼓の明るい未来が生まれてくるはずだから。 そのためにも、これからも太鼓打ち同士の研鑚の場としての活動を続けていきたい。 一生ね。 http://www.dagaku.com/sdk.html
18, テイネン タイショク
2004年 28歳のいわしにとって激動の一年が始まった。 初めての手術、転職、父の死、同僚の死、転職、親友の死・・・ さて、書くか 全身麻酔から覚めたときの最初の記憶は、体を持ち上げる時に 「この患者さん体重軽いわねぇー」 という言葉だった。 「失礼だなぁ 気にしてるのに・・・」と朦朧としながら思ったのを覚えてる。 きっかけは、健康診断で首に出来た謎の腫瘍を指摘され、良性ではあるが取った方が良い ということで、切り取ることになった。 切り取った物体はビーカーに入れられた生牡蠣のようでキレイだった。 周りは痴呆老人だらけの病室で、 夜中に人の顔を覗き込む。 行方不明になって帰ってきた時に「ずっとここにいました。」と言う。 チーズケーキに醤油かける。 「おかしは食べてません」と言いながら布団の上にせんべいのカスが散乱 等など 何かとにぎやかな病室だったけど、術後はとにかく痛かった。 自分一人で起き上がる事も出来なかったので起きるときは看護婦さんに手伝ってもらって 少しずつ起きあがる。 でもナースコールを押して、看護婦さんにお願いするのは何となく気が引けてなかなか押せなかった。 「起きたいなぁ 背中痛いなぁ 首痛いなぁ…」と独り言。 ご飯を一口食べるだけでも激痛が走り、30分かけてようやく半分食べ、後は残す。 パジャマ姿がなんとも情けなく、頭が痒かった。 いつもお見舞いに来てくれた彼女の優しさに初めて弱音を吐いてしまった。 今でも首には傷跡が残っているが痛みも全くなく、ヒゲを剃るとき面倒くさいこと以外は 何も気にしないようにしている。 ちょうどそのころ3階(内科)に母親、4階(耳鼻科)に私、5階(外科)に父親  と家族揃って入院していた。 退院して 一ヶ月 父親が死んだ。 膵臓がん。3か月前までは元気だったのに。 最後まで見栄を張って、気を使って、諦めることの無い、人にやさしい人だった。 葬式の日は、母がかわいそうだった。 死ぬ前にそれまでの派遣社員からサラリーマンになったことを報告したら、 喜んでくれたが、少し寂しそうだった。 複雑だったんだと思う。 太鼓だけで生きて行けたらもっと喜んでくれたかもしれない。 でも、母はよく言っている 「芸術家には なってはいけない」 今まで数多くの芸術家を見てきて、その周りで振り回される者達が、 いかに大変な思いをしたかを知っている言葉だけに重い。  とにかくサラリーマンになった。 3か月後 自分の手には負えないような巨大な問題が発生した。 本当は尊敬する先輩たちともっとずっと楽しく働きたかったのに、 口に出すことさえ憚られるような出来事が起こり、身の危険を感じ辞めることにした。 新しい会社に就職した。 2か月後 唯一無二の親友が死んだ。 人生はこんなにも辛いものなのか。 何故大事なものから無くなっていくのだろうか。 次はだれが死ぬのだろうか? 僕自身だろうか? ポックリ病? そんなふざけた名前を聞かされた時は「バカヤロウ」と思った。 初めて酒を飲み、初めてタバコを吸い、一緒に学校をサボり、似たような音楽を聴き 似たような本を読み、似たような口癖を使っていた友の席は、僕の隣にいつまでも ポッカリと空いたままだろう。 そんな激動の年でも、ライブはたくさんあった。 明るく装い笑っている事でしか自分を守れなかった。 感情が死んでいくのを感じた。 カサカサとした藁人形になりたかった。 諦 念 褪 色 それでも時間は平等に流れていく。 これらの出来事もまた、時の流れの中で色あせていくのだろうか。 3年たって 2007。 今のところ薄れる気配は ない。
17, いわし 「うずまき」に参加
それはまだいわしが鈴太郎だったころの話 奄美の島唄&踊りの会で出会ったタナカアツシさんに 「ハードフォークバンド興味無い?」 と言われて、はーどふぉーく??といぶかしげにしていると 音源を聴かせてくれた。 アコースティックなんだけど、ロックっぽいノリが出ていて あ ハードフォークね。 とすぐに納得した。 「うずまき」というバンド名も合っていて、自分が参加するしない にかかわらず、聞いていたい音楽だと思った。 次のライブでパーカッションが欲しいということで、早速スタジオへ お邪魔してみることにした。 事前に音源をもらっていたのでダラブカで合わせてみて 「なんか いけそうだゾ」と思った。 演奏場所はライブハウスが多く、4バンドくらいの対バンになる。 いつも思うのだけれど、ライブハウスで演奏するバンドやソロの ミュージシャンたちは、最もパイが大きいところで勝負をしているので 他との違いを出すためにとても工夫している。 時には客を置いてアサッテの方向に突っ走っちゃってる人もいるけど それを見るのが結構好きだったりする。 我々「うずまき」も変なバンドで、いわしが参加した時は ギター&ボーカル リードギター&コーラス リードパーカッション(?)ダラブカ サイドパーカッション(?)ジャンベ という異色の取り合わせで、 その後いわしがしばらくお休みしている間は ベース、キーボード、ドラムなども混じってかなり豪華になったりもした。 2007年からは、ギター&歌の二人といわしの三人になって 「渋さ」路線に入っていったような気がする。 (実際安心して見ていられるんではないでしょうか?) しかし、バンド活動は結構大変。 ライブに出るにもお金がかかる世界。 皆仕事を抱えているのでスケジュール合わせも大変。 特にいわしは家が遠いので時間の制約がある。 そんな困難な状況でも続けていけるのは、なぜだろう? 「誰かに何かを伝えたいから」 というのはチョト違う。 特にライブハウスで対バン目当ての客達は本当にビックリするくらい 他のバンドを聴かない人が多いい。 そんな人たちを相手に熱い気持ちをを伝えるなんて、セネガル人に国語辞典の引き方を 熱く語るくらい難しいことだからね。 だから、どちらかと言うとお客さんに対しては 「ただ自分を開放して、それが誰かに伝わればラッキーかな。」 と言う程度に考えておいた方が良くて それよりも、「うずまき」の曲が好きで、音が好きで、MCが好きで 一緒に演奏することが何より好きだから続けていけるんだと思う。 数ある活動の中で、最もリラックスして出来るのがこのバンドだ。 ほかのバンドやグループではお金をもらうことの方が多く、 うずまきは逆に出す方だけれども、 好きな事にお金と時間を使うことってなによりも贅沢だよね。 たとえこの先が困難な道のりだとしでも。 「カナリア」     ドアを開けたなら 歩き出しましょう 覚悟決めたなら  胸を張りましょう ガタガタ言わないで ビクビクしてないで 気にしてるのか? 時をかけたなら うまくやりましょう 息をとめたなら 走り抜けましょう このまま寄り添って 時々抱き合って 怯えてるのは 困難でいい 困難でいい こんなんでいい感じ 作:うずまき(三田さん)
16, いわし アルジャブラ結成に参加
今は平塚に場所を移した「ヘルメットロックカフェ」が大磯にあった頃、 お店で行われたパーティーの後ミュージシャンたちが海でセッションをしていた。 好奇心旺盛な太鼓少年いわしはダラブッカを持って何となく参加してみた。 そこにいたアコーディオンのトモミと ジャンベ&口琴をやっていたウメとその他大勢(ゴメン)と楽しくセッションをした。 後日トモミ嬢から一本の電話がかかってきた。 「あのー バンドやろうと思っているんですけどー 一緒にどうですか?」 と 丁寧な口調だった。(今にして思えば奇跡と言えるほどに丁寧だった。) すでに多くの活動を掛け持ちしていたいわしは 「あんまり ハードな活動でなければいいですけど」 と いまいちやる気のない返答。 とりあえず「ヘルメットロックカフェ」で会うことになり、 待っていると、「こんばんわー」と登場。紹介されたギタリストは何と! 「タケオ先輩!?」 いわしの中学の時の先輩だった。 タケオ先輩は、学校中の女子から「キャー カッコイイー」と言われていた有名な先輩で、 学校中の女子から無価値なものとして、黙殺されていたいわしには、 この人とバンドをやるなんて考えてもいなかった事だけにかなり驚いた。 暫くして、タケオ先輩の家でメンバーの初顔合わせがあり、そのままリハーサルへ。 海で出会った口琴のウメもいた。 他には、ベースシストとパーカッションもいた。 このようにして始まった「Al Jabla」の最初のライブは平塚にある 「SAD CAFE」で行われた。 その後程無くしてメンバー構成が変わり、ベースのマサシが加入。 メンバーが固定した。 トモミ ボーカル アコーディオン ウメ ピアノ カホン タケオ先輩 ギター マサシ ベース タロウ ダラブッカ いわしにとって若いお客さん対象のバンドは初めてだったので、とっても新鮮だった。 演奏場所や時間も、いつもの老人ホームや幼稚園で午前中に演奏 と言うパターンではなく、飲み屋、ライブハウス、等で、夜からの演奏と言う事が圧倒的に多い。 さらに、いつものおばさま おじさまに比べて、お客さんの反応が圧倒的に元気だ。 それぞれの曲のビートに合わせて体を揺らしながら聞いたり、決めどころでは 「イェー!」「フォー!」「キャー!」「いわしちゃーんー!(これはないか…)」 など異様な盛り上がりでお客さんに乗せられて演奏しているような感覚になる。 また、メンバーも(特にトモミ、ウメ)かなりの変人で、堅い活動を続けてきた いわしには「あぁ このバンドでは楽しんでもいいんだ。」 と言う気持で、リラックスして取り組むことが出来た。 こんなに楽しんでいいのか? と思うくらいに楽しいバンドだ。 但し、演奏は周りがエレキやアンプを通しているので、アラブ古典ではあり得ないくらい ハードヒットしなくては音が埋もれてしまう。 必然的に力が入り、気合も入り、テンションも上がり、無理もする。 その無理にお客さんもテンションが上がる。 メンバーもテンションが上がる。 時には、ベリーダンスの踊り子のマッキーやターニャも参加して、ダラブッカとの抜群の 相性でお客さんを盛り上がらせることもできた。 いつのライブもパーティーのような盛り上がりと、多くの人との出会いが待っていた。 実際、様々な方面の芸術家や変人や変態に出会うことによって、より多くの事を 学ぶことができた。 長年付き合っている彼女にも、 「アルジャブラをやって いわしは変わった 本当にやっていてよかったね。」 と言われた。 曲に関しては、トモミがどこからか持ってくるクレズマーやアラブ系、それにオリジナル も含めて10曲位になった。 しかし、演奏の度にマイナーチェンジを繰り返しているから常に新鮮な感覚でいられるのは 何となく、かんなぎ座や民族音楽センターのやり方に似ている。 やはり音楽は 生モノです。 常に新鮮にね。 ライブは平塚を中心にしながらも、TOKYOにも進出して、多い時は月2回くらいの演奏があった。 さらに中野にある普通の民家や平塚駅前での路上ライブも敢行。 2006年にはレコーディングも行い結成してわずかの間にかなり暴れまわったバンドと言う感じ。 印象に残っているライブはたくさんあるけど、やっぱり一番は 2005年8月27日 いわしの誕生日のライブ。イン 小田原オリオン座 この日はかんなぎ座も出演させてもらったので、2バンド出ることになった。 そのかんなぎ座の演奏後、アンコールの拍手があって「あれ?どーしよーか?」 なんていっていたら、それはアンコールの拍手ではなく、いわしの為の 「ハッピバースデーツーユー♪」の手拍子になっていた。 あんなに大勢の人に祝ってもらった誕生日は初めてで、これから先もきっとないと思う。 最高に幸せな一日だった。 現在(2007年)は リーダーのトモミは「イギリスに行ってくる」と言っていたが、どういう訳か今は ドイツでアコーディオンの修行をしている。 なかなか刺激的な毎日を送っている みたいでうらやましい限りだけど、「ドイツにいながら日本にも存在感がある」 という稀有なオーラの持ち主なので、早く帰ってきて皆を巻き込んでほしい。 ウメは影絵の劇団で全国を飛び回っている。 おそらくメンバーの誰よりも舞台経験をこなしている。 きっと演者としてだけではなく演出的な勉強もしているんだと思う。 ウメから演出家と演者の話を聞いていると、強烈な演出家の下で働いていた 太鼓少年いわしを思い出す。 いわしが初めて出会った本格的なベーシストのマサシは自分のバンドのために奔走している。 アルジャブラでは熱くベース論を語りつつもリズム隊の片割れであるいわしが 暴走するので、今のバンドでは独自のベース論を実践するために日々研鑽と 練習そして、数多くのライブに取り組んでいる。 さらにバンド内での音楽以外の役割もベーシスト的にこなしているみたい。 タケオ先輩もマサシと同じバンドで生き生きと活動中。 アルジャブラ一年分くらいの笑顔をワンステージで見せているくらい生き生きとしている。 ギターの音も遠くから聞いても 「あー タケオ先輩のギターだ 」 ってわかるっていうのはすごいことだと思う。 活動休止して一年以上が過ぎているが、 メンバー達がそれぞれ激動の人生を歩んでいる、 まさにJabra(なんでもあり)なバンド「Al Jabra」の復活の日はそう遠くない。 かもしれない。
15, いわし こじまあやに出会う
「沖縄の唄を歌う人がいるから来てみない〜?」 と誘われて、大磯にある「ととや」(雑貨屋&cafe&Bar&いろいろ) に行ってみる事にした。 いわしの想像していた、ヒゲを生やしたコッテリ顔の大酒飲みの沖縄人はいなかった。 お客さんは、ほっそりとしたアッサリ顔の女の人がいるだけだったので 「沖縄人は帰ったのか…」 と思っていると、おもむろにその人が三線を取り出し唄いはじめた。 その声を聞いた時はびっくりした。 沖縄と言えば"ネーネーズ"みたいな感じのいかにも南方系の唄だと思っていたら その声は当時いわしが大好きだったアイルランドの声にそっくりの、とても 高い音で澄んだ声だった。 その瞬間から、沖縄と八重山と奄美の区別もつかなかったいわしは(今も微妙) 徐々に南の島へと引き込まれて行った。 あまりの澄んだ声にすっかり惚れ込んだいわしは、近々に迫っていた大磯宿場まつりに ゲストとしてあやさんを呼んでみた。 すると快くOKしてくれて劣悪な音響環境の中で歌ってくれた。  その後は気にはなっていたもののなかなか機会がなく会うことも無かったが ある日、あやさんからライブのお手伝いのお誘いを頂いた。 その場所は、何といわしが通っていた吉祥寺の民族音楽センターと目と鼻の先! 早速本番に向けて練習スタート! 間近で聞くあやさんの声はやはり凄かった。 和太鼓打ちのくせに高音好きのいわしは頭が痛くなる様なキンキンの高音が たまらなく好きで、八重山と奄美の唄はすぐに気に入った。 数回練習を重ねるうちに「ユニット名が必要ですね」と言うことになった。 そこで出てきたのが、 「かちねこ」と言う名前。 この名前は"負け犬"の反語としての"勝ち猫"で、二人とも猫が好きで、猫的な 気まぐれな活動をしましょうか…と言うことで決まった。   *(この名前の由来に関しては、あやさんがずいぶん前から温めていた名前でもあり、   詳細は「こじまあやのページ」の"島バナ"でおいおい紹介があるはずです。) なにはともあれ、そのようにして「かちねこ」の活動が緩やかに始まった。 第一回目のライブ当日は、何よりも雨が降っていたことに驚いた。 いわしは自他ともに認める晴れ男の為、自分の演奏で雨が降るなんていう事は 考えたことも無かったが、実はあやさんが自他ともに認める強烈な雨女 だったのだ。 どうやら、唄を歌うには雨の方が調子が良いらしいが、太鼓にとって雨は大敵! 先制パンチをくらってしまった…。 その後のライブもいわしには考えられないくらい降水確率が高く、 伝説の域に達していると言っても過言ではない。 そんなあやさんが当時通っていた奄美の八月踊りの会「十五夜会」に誘ってもらい いわしも参加してみることにした。 唄と踊りと太鼓だけのシンプルな民俗芸能で、練習の時にあやさんに聴かせてもらい 一発で気に入ってしまった奄美の唄を、自分も歌えることが嬉しかった。 今ではなかなか行く時間が作れないが、いつでも受け入れてくれるとても暖かい 場所なので、これからも切れることなく繋がっていたいと思える数少ない場所だ。  あやさんは八重山、沖縄、奄美という自分が好きで心惹かれるところへ 素直に飛び込んで行って、無心に唄を習得し、伝統の持つ大きな力と 不自由さに揉まれながらも必死に自分の理想に向かっていると思う。 その姿は 太鼓少年いわし にもとても共感でき、大きな励みになっている。 雨水が自然の中を潜り抜け、最後には清水になる様に 様々な想いや努力を超えて来た清声は、 多くの人の心を涼やかにし、時に暖めてくれる。 お客さんの誰よりも近くで聴いているいわしは幸せだな。 太鼓打ちに正しい姿があるとするならば、それは唄の通る道を作ることにある。 無心に、素直に、唄を歌ってもらえるようにセッセと道を均(なら)す事が出来るような 太鼓を叩いていこう。 今年(2007年)で活動4年目の「かちねこ」はレパートリーも徐々に増えて 出会いの場である大磯の「ととや」を(半ば強引に)ホームグラウンドにして ライブを続けている。 先日、ライブ後に「ととや」で会った外国人のお客様に 「あなたのお気に入りを聴かせてくれ」 とせがまれ、少し考えてからあやさんが演奏した曲は、 いわしが思っていた曲と同じだった。 その曲の名は… 「夜雨節」 その日も雨が降っていた。
14, いわしの音楽趣味
今回は少し脱線していわしの音楽趣味の話 「人を知りたければ、その人の聴いている音楽を知れ」 という有名な言葉がある。 というのは嘘だが、あながち間違ってはいないと思う。 印象的な歌詞とともにご紹介します。 【洋楽ロックポップス】 ・THE DOORS…オルガンの音が知覚の扉の向こう側へ  「When the music's over Turn out the lights」 ・BAD RELIGION…20年以上同じスタイルを貫いてます。パンクは2分以内。  「So many theories, so many prophecies,What we do need is a change of ideas.」 ・R.E.M.…感じのいいロックです。これを聴いていると趣味がいいと思われます。  「The river to the ocean goes,a fortune for the undertow.」 ・DEAD KENNEDYS…天才ジェロビアフラ率いるパンクバンドでこれを聴いていると趣味が悪いと思われます。  「Nazi Punks Fuck Off」 ・NIRVANA…グランジ世代ですから、外せません。  「Come as you are, as you were, as I want you to be 」 ・THE POGUES…アイリッシュのトラッドを組み込んだパンク  「The boys of the NYPD choir Still singing "Galway Bay" And the bells are ringing out For Christmas day」 ・BJORK…アイスランドが産んだ天才。完全に音楽を支配しています。   「State of emergency,How beautiful to be.」 ・NINE INCH NAILS…鬼才トレントレズナーが作る暴力的な音楽。最も尊敬するミュージシャン。  「nothing can stop me now I don't care anymore」 ・FionaApple…私は音楽。ジャンルはフィオナアップル  「I thought it was a bird, but it was just a paper bag」 ・AlanisMorissette…口が大きい。 ファーストアルバムは人類の至宝です。  「You live you learn,You love you learn,You cry you learn,You lose you learn」 ・PearlJam…単純にカッコイイ  「I Still Alive.」 ・KuraShaker…インド風味の絶妙なバランスのかっこいいロック。  「Govinda Jaya Jaya Gopala Jaya Jaya Radha-ramanahari Govinda Jaya Jaya」 ・Sheryl Crow…クールな人です。 「sad sad world without you in it」 【日本人のロックポップス】(古いのばっかりじゃん…) ・尾崎豊…中学の時に毎日聴いていた。  「俺にとって俺だけが全てと言うわけじゃないけど、今夜俺誰のために生きてる訳じゃないだろ」 ・アンジー…親戚の影響から好きになった。今でもよく聴く。  「道化者の役でも何でもいいから スポットライトが欲しかった」 ・中島みゆき…「ファイト」に震えた。  「戦う君の歌を 戦わない奴らが笑うだろう ファイト!」 ・斉藤和義…何となく好き。  「口笛吹いて歩こう 肩落としてる友よ」 ・小島麻由美…この人は変です。  「皆殺しのブルース」 ・スチャダラパー…この三人も変です。  「ジョワ〜ン ヨサヨサ〜」 【クラシック】 ・ベートーベンピアノソナタ…グレングールド版が一番好き ・ベートーベン交響曲全集…トスカニーニ指揮が一番好き(特に7番) ・バッハ 無伴奏バイオリンソナタとパルティータ…バイオリンはグリュミォー ・ブラームス バイオリン協奏曲…バイオリンのグリュミォー ・メンデルスゾーン バイオリン協奏曲…グリュミォーのバイオリン ・ブルッフ バイオリン協奏曲…グリュミォーはバイオリン ・チャイコフスキー バイオリン協奏曲…でもこれはチョンキョンファ 【JAZZ】 ・クリフォードブラウン&マックスローチ…最強コンビ! ・セロニアスモンク…時々聞こえる「変な音」がたまらなく好き ・キースジャレット…ケルンコンサートはなぜか2枚所有 ・クリスコナー…なぜかよく聴く。 【民族音楽】 ・アンサンブルカブール…アフガニスタン音楽のグループ 最強! ・タラフデハイデゥークス…最高の悪乗りオヤジたち 女に振られて泣いていた。 ・サムルノリ…いわしの人生を変えた韓国打楽のグループ ・アン スクソン…韓国のパンソリ歌手 音源が少ないが最高の歌い手。 ・ラーナリム…スウェーデンのグループでフィドル系では一番好き。 ・アルタン…アイリッシュトラッドバンド。アルタン祭りを主催。 ・アライツ エタ マイデル…バスク音楽を演奏する女の子二人組。カワイイ。 ・アラブ古典全般…若林師匠の生演奏が好き。セマイ ナフワンドが最も好き。 ・ギリシャ音楽…今のところ駅で1000円で買ったCDが一番良い。 ・北インド音楽…二キール何とか と言う人のシリーズが好き。 ・トルコ音楽…ワールドミュージックライブラリーが意外と良い。 ・和太鼓…自分の演奏が一番好き。(生意気) という感じです。 やっぱり、全部は書ききれませんね。 趣味の合う人いませんかー?
13,いわしの民族音楽修業
世界で一番難しい打楽器 撥を使う太鼓では韓国のチャンゴ そして、手を使う太鼓ではインドのタブラだ。 チャンゴはある程度お墨付きをもらえたから今度はタブラに挑戦したい。 そういう思いがあったもののどこで、いつ、誰が、教えてくれるのか情報が圧倒的に不足していた。 それでも色々と探していると吉祥寺にある民族音楽センターにたどり着いた。 住所を頼りに、吉祥寺駅前の雑居ビルを初めて訪れてみると、不在…。 ドアに携帯の番号が貼ってあって「御用の方はこちら」と書いてある。 さっそく電話をしてみると、思ったより明るい声の主が 「それじゃあ今度の土曜日に来てください。」と丁寧に対応してくれた。 早速次の土曜日に行ってみると、「スゴイ教室だった!」 もう部屋中が楽器だらけでいたるところに弦楽器がつり下がっていたり 打楽器があったり、どうやって使うのかよく解らない骨董品みたいな楽器!?があったり  そして、「にゃ〜」と猫のお出迎え♪ ん〜 たまらん。 とにかくタブラレッスンがスタートした。 タブラは難しかった。 全然音が出ない。リズムが理解できない。スピードについて行けない。 和太鼓と韓国音楽で「俺ってかなりいい感じだゾ」 と思っていただけにかなりの屈辱感と歯がゆさを感じた。 5年はかかる。そう思った(が五年以上が経過した今もちっとも上手くなっていない というか、練習さえしていない)。 そんな時に師匠が「ダラブカ興味無い?」と誘ってくれた。 とっても興味があった(というかタブラより簡単そうだと思いそっちに逃げたかった) ので興味があると言ったら、ダラブカ教室にも来ていいよ。とのお許しが出た。 ダラブカも難しかった。 奏法もさることながら、変拍子にやられた。 10拍子ってなんだ? 7拍子って気持ちいいのか? 9拍子ってなんか不自然じゃないか? でもメロディーがインド音楽よりわかりやすく、一曲が短いので親しみやすかった。 リズムごとに、マスムーディ、セマイサキール、マルフフなどの名前が付いているのも 韓国音楽のヒモリ、クッコリ、セマッチなどと似ていてわかりやすかった。 進んでいくうちに10拍子が3+2+2+3である事の理由や、7拍子の気持ちよさ、9拍子の熱さ がわかってきて、だんだんとアラブ・トルコ、中央アジアの音楽に虜になっていった。 とりわけ好きになったのが、アフガニスタンの楽器「ルバーブ」と「ゼルバガリ」 ルバーブは弦楽器で、洞窟の中で聞いているような何ともいえない響きがあり、 ゼルバガリは小型のダラブカで陶器&革でできていてダラブカとは全然違う自然の音がする。 また、それらの楽器に乗せて歌われる歌がとてもキャッチーな旋律でついつい鼻歌で歌いたく なるほどだった。 とにかくアラブ、トルコ、ギリシャ、アフガンなどの音楽を知るたびに何ともいえない 「音楽的幸せ」が体の中に満ちていくのを感じた。 そして、タブラがまた遠くなっていった…。 だって難しいんだもん。 音楽そのものに対する知識の上で民族音楽センターは私に計り知れないものを授けて くれたが、それ以上に主宰者の若林忠宏という演奏家が私に大きな影響を与えた。  稽古は、音を出す練習は家でも出来るんだから…ということで、 教室ではその音楽のバックグラウンドや理論的説明、伝統の意味、などが主で、 楽譜外の細かい音や微妙な間の取り方を教わる。 そして、実際の演奏では演奏者同士のコミュニケーションを何より大事にして いくら出来が悪くても必ず一つは褒めるところを見つけてくれた。 師曰く ライブの善し悪しは演奏家が1/3 お客さんが1/3 そこの空気が1/3 だから、演奏曲目もやりながら決める。 こっちはヒヤヒヤもので、当然 初めて聞く曲もある。 前奏を聴いてから、どのリズムパターンを叩くか判断し途中から合わせることになるが、 入り方を工夫してカッコヨク入れたり、ブレイクで一緒に止まれたリすると、 師匠がこちらを向いて「ニコーッ!!」っと笑ってくれる。 時々「そー あってるー!」と言ってくれる時も。(これが たまらん!) しくじると、「はぁぁぁぁぁ?」という物凄い顔で睨まれることも… だから、師匠の演奏にお供するときは常にドキドキで、その「弟子感」が心地よかった。 太鼓少年いわし は師匠に褒めてもらいたい一心だった。 でもタブラは一向にうまくならなかった。(だって練習してないんだもん。) タブラは、↑な感じだったがインド音楽自体はとても好きで日々シタールとタブラの音を聴いていた。 ゆったりしたノリの中で叩かれる倍速のリズム、同じリズムを3回繰り返し一拍目に戻る 「ティハイ」と呼ばれるルールそして、曲のスタートからゴールまでの時間の使い方と執拗な加速。 それらの音楽的特徴は、その後作る私の曲に大きく影響を与えて続けている。 いわしの音楽観はここにおいて一つの帰結を迎えた。 日本の古典音楽、韓国音楽、アラブ音楽、インド音楽、 これらのリズム体系と音楽理論の助けを借り、日本の太鼓を世界の民族音楽に並べても 遜色ないレベルにまで高めたい。 それが新たないわしの夢だった。 いざ行かん 民族芸能から民族音楽へ!
12, いわし 先生になる
そもそも 習い事をしようと思ったのは人に太鼓を 教えることになったからだった。 人に教えることによって「エラそうな人」になってしまわない為にも 人に教えを乞い、より謙虚でいられるようにしようという思いがあった。 最初の教室は、ソロライブを見に来てくれたお客さんを中心にスタートした。 藤沢で月に2回4人の生徒さんを相手に基礎からスタートした。 年配の方だったので(失礼!)より合理的にわかりやすく、かつ楽しく 出来るように細かいニュアンスを省いて、大雑把に体系立てて指導した。 撥の持ち方は4種類 @グー持ち…指全部で持つ 大きな太鼓用の持ち方 A前持ち…人差指と親指で持つ 小さな太鼓用の持ち方 B中持ち…中指と薬指と親指で軽く持ち、ゆっくりした曲で奇麗に振る C後持ち…強打する時と 横打ちの時に使う 基本のリズムは5種類 @タンタン…平常心 Aタンタカ…軽快に Bタカタン…叩きこむ Cタカタカ…軽く Dタタンタ…次へのつなぎ 曲は基本的には4行で構成し3分以内のものにした。 @起…決まったフレーズをみんなで一緒に A承…異なるフレーズを組み合わせて B転…一人ずつソロ C結…みんなで一緒に加速して終わり これだけでも結構な負担になっていた。 特にソロは 「え〜 やっだ〜 無理無理ー」 と言いながら、やり始めると結構楽しそうだった。 この教室は3年くらい続けて、私の仕事の都合で休校にした。 最初の教室と同時進行的に始めたのが小学校の先生を対象とした教室だった。 こちらも基本的には最初の教室と同じ路線でスタート。 但し、今までも太鼓を叩いていた方達だけに、その思考を変える必要があった。 そのために、合理的で余計な振りや無駄な音を徹底的に省くことに必要以上に力を費やした。 派手で勇壮なものよりも、シンプルで自分たちの手の届く範囲の事を 自信を持ってやってほしかった。 日数を重ねるうちにその方針をしっかり理解してくれて、ソロも自由にできるように なってきた。 この教室はその後かんなぎ座の座員により継続していて、 私の頃よりかなり上手になっている。 さらにもう一つは、大磯で障害者対象の教室を受け持った。 自閉症とダウン症の子たちで、こちらは最初の段階で 「私は太鼓をセラピーに使うことはできないから、皆で好き勝手にやるだけですよ」 という事を理解していただき、皆で楽しく好きなように叩いた。 当然、曲らしきものすら一つもなければ、揃って叩くことも無い。 汗びっしょりになりながらずっと叩いている子もいれば、 勝手なメロディーに合わせて叩いている子もいるし、一発叩くだけで満面の笑みを見せる人もいる。 中には一日一度も太鼓に触れない奴もいる。 それでも走り回っている軌道に手を出せば、ハイタッチを交わしてくれたりと、 なかなかこっちも楽しい。 この教室は今でも継続中。 これらの太鼓教室をやってみて思った事は、 「人に教えることもまた修行の内」 「しかし、ある程度を過ぎると、あまり自分の為にはならない」 ということだった。 言い方が難しいが… 人に教える為の技術的な工夫や論理的な理解などの、 直接的な自分への効果があったのは最初の一年くらいだけで、 後は自分の中にある経験や知識を掃き出す事にしか使わなかった。 しかし、掃き出せば掃き出すほど、自分の在庫が減っていくので、 さらに新しい技術や知識を貪欲に求めていけるという事を考えると それもまた、間接的に為になっているのかもしれない。 要するに、インプットとアウトプットのバランスを保つために、いわしには教室が必要だった。 あと、人とのコミュニケーションが下手ないわしは、人間的に大先輩の おばちゃん達(失礼!)や素直なリアクションの障害者たちにもまれて 少し角がとれたような気がする。 みんな ありがとう。
11, いわし 習い事を始める
23歳になったいわしは突如習い事を始めた。 まずは、ピアノ。 苦手なことには正面から突っ込もうと思いスタート 「ド」の位置がどこなのかも危ういほどのピアノ知識を持って 「本間佳代」(ほんまかよっ!)大先生のもとで 約一年教わったがそれっきりに… でもそこでは演奏家として何よりも大切な「丁寧に音を出す」 という事をみっちり教わることができ、本当にいい経験だった。 次に習ったのは民謡の太鼓。 こちらは美波秀輔師匠に教わった。 主に西ものと言われる東京より西の国の唄と東北の唄の伴奏を習った。 津軽ものは独特であまりやらなかった。 西ものの唄の中では、串本節、木更津甚句、郡上節、など 東北ものでは生保内節、外山節、沢内甚句、真室川音頭、紅花摘み唄 等が好きだったが、圧倒的に好きになれない曲の方が多かった。 だって退屈なんだもん。 太鼓のリズムは決まっているようで決まっていないような感じで 先生曰く 「合ってりゃいいのよ〜 あっはっは〜♪」 とのこと。 何度か訪れる本番は、練習でやったことない曲でも平気で叩かされる。 前奏を聞いただけですべてを予測し叩く。 普段から民謡を真剣に聴いていれば、妙なブレイクポイントも決められるが 普段から聞き流しているいわしには難解そのものだった。 基本的に2拍子なので、4拍子で区切っていると痛い目に合うことが多い とわかっていてもついつい音が足りなかったり、多かったり。 すべては唄主導のため歌詞とメロディーをひたすら叩きこむのが修業だった。 約4年間習い、一応卒業ということになった。 名取に関しては、師匠曰く 「あら 名取なんてならなくっていいわよ。 お金かかるし、しがらみが出来るし。  叩きたくなったらいつでも来なさい 演奏会も出してあげるから」 と相変わらずサバサバしていた。 民謡界で生きていくつもりもなく、ただ民謡の太鼓の勉強がしたかっただけの 私のことをよく理解してくれている師匠に出会えて本当に良かった。 また、民謡と並行して民族音楽の修行も始めた。 この経験もまた、いわしに多大な影響を与えることになるが、その話はまた今度。
10, いわし ソロ活動を始める
かんなぎ座が結成されてから約二年が過たころから いわしはソロ活動を開始した。 かんなぎ座は多くの人数で成立しているグループであり いわしの思い描いていることのすべてを彼らに強要することが 出来なかったので、自分の思っている「完璧な世界」と かんなぎ座のギャップを埋める為に始めることにした。 一番初めのソロライブは、平塚にある出縄(いでなわ)という巨大な 野焼きの作品の前でかがり火を焚きながらの演奏になった。 作者である陶芸家の藤田昭子さんからは何人かで演奏して欲しい と言われていたが、一人でやらせて欲しいと言い、何度か話し合いを経て 「一人じゃなきゃやらない。駄目なら他を当たって欲しい。  でも他の人に頼むより私一人の方が絶対良いですよ。」 と言う、今思うとかなり生意気な事(汗)を言い続けてソロでやらせ ていただくことに決定。 決まってからは猛特訓が始まった。 自分ひとり用の曲はもちろん無かったし、和太鼓で完全にソロと言うのは 半端ではなく難しいことだった。 大きな事を言ってしまった手前、中途半端なことは出来ない。 自分の引き出しのすべてをひっくり返して懸命に曲作りと練習をした。 在庫一掃状態だった。 その時の演目は、神楽歌、チャンゴ、お囃子、大きな太鼓一人打ち、などの 自分が勉強してきた事と、今後やっていこうと思っていた自作曲などを合わせて演奏。 (一部かんなぎ座の栄作に出演してもらった) 何とか 100人超のお客様に支えられ、無事 作品出縄(いでなわ)との競演が出来た。 そのとき思ったことは、 一人でやるのってなんて大変なんだ…  もうやりたくない でも またやりたい。 と言うことだった。 グループでやるのとは全く別物だった。 次にソロで演奏したのは平塚のライブハウス「レイン」だった。 この時はさらに自作曲中心にしたかった為、親戚の別荘を借りて一ヶ月間の合宿をした。 朝から晩まで常に太鼓と向き合っていた。 御殿場の高原の中という最高のロケーションで 朝もやの中で清々しい気分で散歩をしながら構想を練るつもりだったが、 毎日イライラしていた。 曲もできず、太鼓うまく叩けず、手首は痛くなり、日にちは無くなっていく。 自分の頭がおかしくなっていくのを感じた。 夜、寝るときは虫の声を聞きながら、何度か泣いた。 阿呆のように一日を丸ごとボーっとして過ごしたりもした。 数時間ずっと体を揺らしているときもあった。(今でも時々あるけどね) 本番は意外とうまくいったが、本番前にどの辺からまとまってきていたのかは よく覚えていない。 火事場の馬鹿力と言うやつかもしれない。 それ以降はだいぶ楽になった。 2ヶ月に一回ずつ一年間 藤沢のインタープレイでソロをやった時は 曲や演奏よりも集客にてこずった。 そうそう知り合いばかりも呼べないので、路上で演奏してチラシ配りもやった。 いわしにとってソロ活動を始めたことは周りの人からすれば、 不可解な行動だったかもしれないが、自分にとっては必要不可欠で、避けることは 出来ない、乗り越えるべき山だったのだと思う。 自分を保つために。 そして「完璧な世界」に近づく為に。
9, いわしかんなぎ座を結成する
「俺ぁ もう帰るよ。  地元に戻ってきて太鼓やりたかったら一緒にやろう。」 島根からの帰り道 京都に寄り、京都で太鼓の修行をしていた 後輩の秀樹と絵理子にそう伝えて地元へ帰ってきた。 暫くするとちょうどいいタイミングで彼らも帰郷。 まずは一緒に音出しを… ということで実家の隣の公民館で、それぞれが思うように練習。 何かを一緒に作りだす余裕は無かった。 しかし、せっかく同じ場所を共有しているのだからと少しずつ 一緒にやり始めた。 そのころいわしは、近所の太鼓グループを片っ端からのぞいて回り それぞれの代表者やメンバーと交流を深めていた。 すると、ある太鼓グループの方から「うちの幼稚園で演奏してくれない?」 との依頼があり、早速持ち帰り二人に聞いてみると。 すんなり「やってみるか」ということになった。 もちろんグループの名前が必要になった。 様々な名前が頭の中を駆け巡って、毎日毎日そのことだけを考えていた。 そんな時、神楽関係の文献の中に「かんなぎ」という言葉を発見した。 特殊な能力で神様と人の間に立つひとの事で、神楽を専門に扱う人の事も 指すという。 巫や覡の文字を普通使うが、神和と当て字することもあるらしい。 そのかんなぎに座を付けて「かんなぎ座」。 すらりと口から出た。そして当たり前の様にすぐに しっくりとなじんだ。 二人に提案したところOKが出たので、 1998年2月13日雨降りしきる中、「神和座」が誕生した。 その後何度か演奏を重ねながら、太鼓も徐々に揃い衣装も決まってきた。 袴と白衣のスタイルは、より神楽寄りの衣装にしたかったことと、 現代和太鼓の画一的な衣装(鬼太鼓座、御諏訪太鼓系)に対する抵抗もあった。 いつの日かこの「神和座」で相洋太鼓と共演できる日を夢見て出発した。 (この夢は3年後に叶う。)
8, いわし 韓国へ行く
島根に住んでいた時に、10日間ずつ2回韓国へ行った。 下関から船で数時間で着いてしまうので実家に帰るより短時間で韓国に行ける。 一回目に行った時に船の中で出会った写真家の本村さん(その後ジャーナリストになり、今は音信不通) と一緒に、釜山で楽器屋さんに行きチャンゴを物色。 店長さんが、日本語をしゃべれる人だったので、色々聞いてみると 「ちょっと叩いてごらん」 と言われ、チャンゴを叩いてみると、思いのほか"イケてる"みたいで、 「私のグループで教えてもらうといいよ」と言ってくれた。 さて、実際に練習場に行ってみると、地下の集会場みたいなところに たくさんの楽器があり、小部屋にはビデオがズラリ。 若者10人くらいが個人個人練習をしたり、ビデオで研究したりしている。 いわし達二人がやってきて 皆 興味津津の様子だったので、店長が 「彼は日本でチャンゴを独学している若者で、こっちの彼は写真家です。」 と紹介してくれた。 そして、その場で飲み会に発展。 まず最初にグループ最年長のボスに酒が注がれる。 その後、ゲストである僕らに注がれる。(儒教国家は年長者を大事にします。) そしてまず最初の質問は、「年幾つ?」 その答えを待つみんなの目がとても真剣だ。 「21歳です」とジェスチャーで答えると、「ワー」とか「キャー」とか 何やら盛り上がっている。(儒教国家は年齢に敏感です。) その結果、同じ年の女の子二人がいわしを教えてくれることになった。 それから、毎日そこに通って朝から晩まで練習した。 日本語ができる店長さんは当然仕事でいないので、昼間はその子たちと僕らだけで 練習。(本村さんは写真を撮りに出かけてしまう。) 言葉は全く通じない。漢字もダメ。 会話と言えば、ドンドン クッタクン タククタクタクン ドーンキタッータ などの太鼓の音と絵をかいての筆談。 チャンゴの譜面は基本的には3種類 |…タ(右手の音) ○…クン(左手の音) φ・・トン(両手)*丸の中に棒です。 これの組み合わせなのでとてもシンプル。 無理に五線譜にしたがる日本の太鼓とは違うな と思った。 ある日、街頭でデモ活動をするから見に来いと言われて見に行った。 すると広場の真ん中でたき火をしてそこにタバコをどんどん投げ入れては何かを叫んでいる。 周りではサムルノリの演奏をしている。 いったい何を言っているのか聞いてみると、外国の煙草は吸うな!自国の煙草を吸え! とのこと。(実際燃やしているのは、マルボロやマイルドセブンだった。) バツの悪そうないわしを見て、 「いわしさんは日本人だから無理して韓国の煙草を吸わなくてもいいんだよ。」 と優しく声をかけてくれた。 そしていわしは、こっそりとポケットのフィリップモリス(米産)を捨てた。 何度か彼らに同行していると、彼らは音楽だけではなく、音楽を通して米英日の文化よりも 自国の文化を愛するように呼び掛けている団体だとわかってきた。 心なしかグループのボスはいわし達に冷たく、一言も会話をしてくれないのも頷けるような気もする。 ひたすら西洋音楽にすり寄り、洋楽と共演することが、一種のステータスのようになっている日本の 伝統音楽とはだいぶ違うスタンスだ。 私はここまで深く自国の文化を愛しているだろうか…? 2回目韓国に行った時の最後の日に、ボスに帰国の挨拶をしたら、 「そこに座れ 叩いてみろ」 と言われ、今まで習ったことを一生懸命やってみた。 すると、初めて向い側に座り、手を取って教えてくれた。 30分くらいだったろうか、一瞬だったような2時間くらいだったような、それほどに密度の濃いものだった。 全力で、何も考えずにひたすら叩いた。 そして、放心状態になったいわしに向かって。 親指を突き立てて 「ウンウン」とうなずいてくれた。 感動した。 韓国での体験の中で最も感動した一瞬だった。 涙をこらえるのに必死だった。 思うようにはかどらない神楽修行を思い出してしまう。 ここはなんて素晴らしいんだろう。 異国人にこんなに優しくしてくれるなんて。 帰国直前、ずっと一緒に練習をしてくれた、李さんが耳元で 「I… I Like You…」 と言ってくれた。 その場で強く抱きしめてしまいたくなったが、 「Thank you everything.」と万感の思いを込めて答えた。 しかもその後に太鼓の撥をくれた。 韓国の太鼓打ちは日本よりも撥を大事にする。 滅多に折れないから5年くらいは使う。 その使い込んだ撥をくれるということは、とても特別なことだと思う。 今でもその撥を見ると心が熱くなる。 そうして、ロマンチックな思い出と大きな恩義の詰まった釜山の夜景をしっかり 目に焼き付けて帰路に就くいわしでした。 韓国のみなさん すべてをありがとう。
7, いわしの神楽修行
「そんなんじゃぁ 広島焼は教えられねぇな!」 神楽の修行の前にサティのたこ焼き屋の修行があった。 一人前のたこ焼き師になるつもりが全く無いいわしは、一週間でたこ焼き屋を辞めた。 たこ焼き屋はやめたが、そこの店員だった若造(ごめん名前なんだっけ?)とはその後も関係が続いた。 彼は地元で神楽をやっていたので、2〜3ヵ月毎日うちに来ては神楽の踊りを教えてくれた。 右回り、左回り、前行って、後ろ行って、決めッ! みたいなことを夜な夜なドタバタやっていた。 歌も教えてくれたし、解らないところは丁寧に教えてくれた。 そのかわり、散々食べて、飲んで、女を連れ込んだりして、最終的には いわしに5千円を返すことなく失踪。(大阪へ行きたいと言っていた。) どうしようもない奴だったが、神楽の舞は上手かった。 一方 正式(?)な練習は高津神楽社中にて子供に混ざって後ろの方で参加。 初対面の挨拶で、「君は背が高いから神様役だな」 と言われたので、神様役の練習。  太鼓に関しては「太鼓うまいねー」と言われたが、"舞い"に関しては誰も何も言ってくれなかった。 練習に参加したことよりも毎週行われる舞台に付いていき、演目を見ている時間の方が長かった。 みんなの目もどことなく冷ややかで、「東京から来た人にわかるもんか」という空気があった。 田舎って結構冷たいのね。 そういう空気に嫌気がさしている同じ年の若者もいたが、全体の空気の中では どうする事も出来ないことを嘆いて、「すまんのぉ〜」と言っていた。 最終的には、1年いた中で、締め太鼓とチャッパでは本番にも出させてもらえたが、 まともに舞を習ったのはほんの数回だった。 「これ以上いてもあんまり変わらなさそうだな」 と思い引き上げることにした。 振り返ると、この1年は収穫も多かったが、田舎の壁の厚さと高さを思い知らされた という感じだった。 何となくスッキリしない山陰の空のような気持で帰って行く いわしであった。
6, いわし 石見(いわみ)へ行く
20歳のいわしは単身島根県益田市へ向かった。 神楽の勉強がしたい 伝統芸能のルーツを知りたい 自分と太鼓についての今後をゆっくり考えたい 凝縮された時間を元に戻したい 鬼太鼓座という名前から逃れたい 誰にも崇め奉られないところに行きたい 失われた自分のペースを取り戻したい 韓国にも行きたい などの理由で行くことにした。 幸い高津神楽社中の代表も「来れば教えてあげるよ」と言ってくれた。 出雲1号に乗り込み、いざ益田へ。 到着してからまずは不動産屋へ 「この街に住みたいので部屋を貸してください」 「神奈川から来ました。」 「仕事はありません。」 「お金はいちおうあります。」 と話していると、不動産屋のおばちゃんも呆れ果て、 「まずは仕事を見つけて来んちゃい」 なるほど、確かにそうだな。 と思いながら近所のサティでウロウロしていると "アルバイト募集!" の張り紙があるではないか。(たこ焼き屋さん) 事情を話して、早速面接するとその場で採用決定。 不動産屋に戻り、 「仕事決まりました。」 その後、いくつかの物件を見て、火葬場の隣にある陰気なアパートに決定。 「こんな人始めてじゃわ」とおばちゃんも驚きながら鍋やら炊飯器やらカーテンを 貸してくれた。 到着から5時間くらいで生活の基盤ができた。 その週末には、神楽の演奏も見に行った。 お腹ではなく胸の真ん中に響く太鼓の音がそこにはやっぱりあった。 来てよかった。 この地でもう一度 一から勉強だ。 この地で失われた時間を取り戻すんだ。 この地で新たな人生の幕を開けるんだ。 続く  
5, いわし鬼太鼓座を去る
私が在籍していた時から、多くの人が通り過ぎて行った そして自分もまた、通り過ぎていく数ある中の一人になるということに 寂しさと後ろめたさが無かったとは言えない。 しかし、私を決断させたのは、決して1つだけの理由ではなかった。 ひとつは皮肉なことに田さんの話を理解すればするほど 自分がここにいてはいけないと思うようになった。 「あんたらが凄いんじゃなくて鬼太鼓座にいることですごく見えているだけ」 と何度も言われた。 「自分一人で太鼓叩いても誰も褒めてはくれないょ」 「たかが芸人が音楽家ぶるな」 「人がやらないようなことをやれ」 「新しい物に飛びつくな 新しいものを作り出せ」 「客に媚びるな」 等  18歳から20歳の多感なお年頃のいわしには、何かを産み出さなければ いけないという単純なそして、熱い情熱が宿った。 ある時、広島での演奏の後石見神楽を見に行く機会ができた。 そこで、豪華絢爛な衣装を着て踊る神楽(神様と鬼のチャンバラみたいな感じ) に使われている太鼓の音に心を取られてしまった。 【おなかに響く太鼓のではなく胸の真ん中に響く太鼓の音】 これが、自分が求めていた音だと思った。 その音を聞いていると、どんどん元気になってうれしくなった。 太鼓少年が顔を出す。 ドキドキして体が熱くなった。 不思議と涙が出た。 いつか、いつの日かこういう音を多くの人に聞かせることができる太鼓打ちになろう。 そんなイメージと希望が太鼓の音と共にいわしの心に残った。 宮城での話、 夕方、時間があったので街をブラブラしていると、どこからともなく太鼓の音が聞こえてきた。 自然と音の鳴る方へ足が向き、練習場所にたどり着き、見学していいか聞いてみると快くOK。 そこのグループは所謂組太鼓中心の創作太鼓グループで○○先生に曲を作ってもらって(有料) それをやっているとのこと。 その曲が、あまりにも稚拙でひどかった。 それなのに小学生くらいの女の子が必死で練習をして、手にマメを作ってはティッシュと セロハンテープで血を止めて頑張っている姿を見て、やりきれない気持ちになった。 もったいない… この純粋な気持ちと努力が片手間に作ったような曲に費やされているなんて。 この時ほど現代和太鼓のレベルの低さに腹が立った事はない。 「変えてやる 俺が和太鼓界を変えてやる」と何度も何度も思った。 そこのグループの会長さんは、「いや 実は鬼太鼓座のものです…」 といわしが言ったらびっくりして、急に態度が変わった。 それが世間というものかしら。 とにかく絶対権力の中にいることに耐えられなくなっていた。 大太鼓も、組太鼓も、日本太鼓連盟もみんなバブル期が作り出しだ虚構じゃないか 僕らの時代はそんな大きな風呂敷はいらない。 もっとシンプルでやさしい演奏を合理的に練習して、 目の前の人たちの為に演奏するような太鼓が必要なんじゃないか。 そう思うことと、自分が鬼太鼓座にいることの矛盾が日に日に膨張していった。 熱海に家を借りた鬼太鼓座は毎日熱海駅から湯河原までの道を往復していた。 その途中、道端から猫が一匹飛び出してきて、目の前で轢かれてしまった。 さっきまで元気だったのに今はもう呼吸さえしていない。 一緒に走っていた、先輩のRさんと一緒に道の端へ寄せて私は悲しんだ。 Rさんは「まったく気ぃ付けろよ」と猫に投げかけすぐに行ってしまった。 ひどい人だと思った。 その日から数日間いわしは考えた。 そして出た結論が、 「同じ道を走っていて、猫は偶然死んだ 私は偶然生きた。 もし 今の自分にやりたい事や やるべきことがあるならば、偶然死んでしまう前に やった方がいい 死んだ猫の為にも」 ということだった。 つまり、自分が本当はあまり魅力を感じていない大太鼓や秩父屋台ばやし等の 現代和太鼓の総元締め的団体に在籍していることの違和感と、もっと小規模でも 人の心を動かせる事への確信、そして頭の中いっぱいに広がる想像力の実現に向けて 今こそ踏み出すべきだ と思った。 「鬼太鼓座という船は私には大き過ぎました。もっと小さな船で動きたい」 という旨を高久保さんに伝えて、その後 鈴太郎さん→田さんへ。 すると田さんから 「あんたは良い奴だから 仲間をたくさん作りなさい」との言葉。 誰ともぶつかることなく、平和に退座することが出来た。(これはとても稀有なこと) 最後の日 皆に挨拶をすると、 鈴太郎さんは「花神」という司馬遼太郎の本をくれた。 壱太郎さんはビン詰めのウニをくれた。(謎) ちなみに、当時ニューフェイス諸君と呼ばれた同期の仲間たちは、その後みんな辞めてしまい お百姓さんになったり、韓国に嫁いだり、サラリーマンになったりしているが吉田氏だけは 頑張って大太鼓を叩いている。 負けないもんね。 続く
4, いわしチャンゴに出会う
最初の合宿で初めて触ったのが、韓国の伝統楽器のチャンゴだった。 変拍子と変わった撥の使い方に戸惑いながらもやってみるとすごく面白い。 鈴太郎さんにCDを借りて聞いてみると最高にカッコイイ! 毎日片時も撥を離さず狂ったように練習した。というか狂っていた。 そんな様子を見ていたらしく、田さんから 「鬼太鼓囃子でチャンゴをやれ」(*鬼太鼓囃子は締め太鼓7個で演奏される人気のある曲) と本番当日に言い渡され、嬉しさと怖さでボー然となった。 その日の演奏ではイマイチ要領がわからず、本番後ボロクソに言われた。 その時言われたことは今思い返しても頭に来る。  その後は徐々にやりたいように出来るようになって、舞台を見にきた韓国系の 演奏者とも友達になれた。 鬼太鼓座に入って最大の技術的収穫はもしかしたらチャンゴの技術だったのかも 知れない。 そして技術以外の収穫は、間違いなく 「田耕」氏の思想と教育だった。 続く
3, いわし鬼太鼓座に入る
「この商売は根暗な奴には出来ないんだよ。」 鬼太鼓座 代表の「田 耕」(でんたがやす)氏に初めに言われた言葉だった。 その後電話で2時間半くらいは色々な話が続いたが、その内容は いわしの理解力のキャパシティーを超えていた。 そして最後に言われた言葉が、 「この商売は根暗な奴じゃなきゃ出来ないんだよ。」 ん〜 なんだ この パラドックスは… それでも、「とにかく一度来てみなさい。」と言われた言葉に甘えて お手伝いに行ってみた。 すると、来月から大阪へ行ってしばらく関東には来ない。 入るんなら今月中に荷物まとめて来い。とのお達しが! よくわからないドサクサの中飛び込んでしまった。 サーカス団に入るような感覚だなぁ と思った。 自分がプロのグループに行こうと思った時に候補に挙がったのが やはり、鬼太鼓座と鼓童だった。 鼓童はしっかりとした合宿所と研修制度があり、 鬼太鼓座には住む家さえ無かった。 そんなサーカス団的なところに強く惹かれたのだから まさに思い描いていた通りの展開に自分の人生が自分のものとは思えないくらいに興奮した。 さて実際に入ってみると思った以上に過酷だった。 公演は3日に一回くらいの割合であり、4tトラック2台の 膨大な量の搬入、屋台の組み立てなど、大がかりな仕込み 演奏後には急いで撤収。 みんな疲れて気が立っているので「アホかお前」と叱られることもしばしば。 特に関西人が多い時期だったから、なれない関西弁にも かなりヤラれた。 演奏がない時は何処かの田舎へ行って合宿 朝6時起床 1時間走る 田さんの話(2時間くらい) お昼自炊 昼寝&練習 2時間くらい走る 夜自炊 田さんの話(3時間〜) 寝る の繰り返しで 練習の内容はただひたすらたたき続ける。 技術的に何かを教えてもらった記憶は無い。 覚えているのは ・鈴太郎さんにチャンゴ ・高久保さんに三宅 ・ケルビンにダブルストローク を教わったくらいかも。 一番初めに参加した合宿では手首が痛くなり、眠れなかった 今まで、自分には人に負けないテクニックがあると思っていただけに 圧倒的なパワーが必要な鬼太鼓座の太鼓の前に完全に叩きのめされた 撥も持てない、太鼓も持てない、箸も持てない、なにも持てない それほど痛かったが、自分に期待している先生や先輩や後輩の顔を思い出しては がんばろうと思った。必死だった。 走ることは嫌いではなかった。 毎日天城峠を上から下まで往復するのも厳しかったし、神戸の山でも 死にそうになりながら走った。 巡業中(?)は あの街、この街、春夏秋冬いつも早朝から走った。 海外も合計10ヶ国くらい連れて行ってもらったが、どこの国でも走った。 走るということは決まっていても、どこをどう走るかは自由だったので どこへいっても城跡や名所を見に行った。 走っている時だけがプライベートな時間なので、 誰にも邪魔されず太鼓少年になれる時間だった。 「いつか必ず… 」と いつもいろいろな夢とリズムが頭の中を駆け回っていた。
2, いわし高校へ行く
無事に相洋高校へ入学できたいわしは早速部活見学へ 最初は弓道部へ入ろうと思い見学に行くと 先輩のあまりの恐さにビビってしまい 「やーめた」とあっさり引き下がる。 そんな時、部活動紹介で見た和太鼓部の演奏で 一番端の太鼓が大磯のお祭りの太鼓にそっくりで、 音も一番きれいで、しかも叩いている先輩の姿がとても美しく 「あの先輩に あの太鼓を習いたい」 という思いで友達を騙し、早速入部。 憧れのあの先輩は3年生。 実際の指導をしてくれるのは2年生… それでもできるだけ先輩の近くに行き、「中」と呼ばれる太鼓を 練習していると、時々 「んー ここはこうだね。」と優しく教えてくれた。 一年生の時の最大の喜びは、曲の練習のときに 私と反対側の同学年の二人で同時に合わせるところがあり どうしても合わなかったのを見かねた顧問(この人には今でも世話になりっぱなし)が "いわし"と"やまめ"(憧れの先輩の仮名)でやってみろと 言い、実際やってみると、 音も振りも見事なほどにぴったりと合って、自分も周りもビックリマン! そりゃ何時も真似してますから ハイ。 あの感動は今でも残っている。 もうひとつ鬼のxxxと言われた女の先輩がいて、皆いつもビクビクしていた けど、前の顧問が作った曲が使えなくなり、途方に暮れる部員達の中で その先輩が一番ショックを受けていたのが印象深い。 鬼のXXX先輩が涙を流しながら悔しがった光景と、それを受けて顧問が言った 「俺がお前らのために曲を作ってやるよぉ 泣くなよぉ」 という言葉も忘れることはできません。 そうしてできた曲が「誕生」 2年生 それは難しい年ごろ。 好きな人のことで頭が一杯になることもしばしば。 それでもその頃はもう「太鼓のために学校がある」という感じで 練習が楽しかった。 先輩は好きになれなかったけどね。 そんな中でも女性部長の先輩は尊敬してやまない先輩だった。 新しい曲を先生が持ってきた時、誰もがその先輩が一番目立つ所を やると思っていたら、 「いわし ちょっとおいで」 と言われ、 「私はもう卒業なのよ、これからはあんたがやりなさい。」 と有無を言わせず自らポジションを移動したのだ。 (ちなみに私は3年の時違う曲でこれを真似したら、先生に「バカッ」と言われ 却下された。迫力の違いというか、未練が見え見えだったのか・・・) その曲の名は「荒波」 3年生 それは最も調子に乗っていた時期。 もしかしたら自分より太鼓がうまい奴なんていないんじゃないかと思っていた。 (その後嫌というほどうまい人に出会う事も知らずに) 後輩からも人気があった。(と思っていた) どんな曲でもまずはいわしがお手本を見せた。(つもりだった) 五時間目に遅刻して登校し、部活はしっかり出るような生活。 授業中も机をコツコツ、椅子をコツコツ、手すりをコツコツ 彼女もいたし、まさに有頂天。 中国研修という名の下に中国でも演奏し、文通友達もできた。 (ホテルでタバコが見つかり先生に張り倒される事件も…) 引退の時にもらった色紙は今でも大事に持っている。 卒業後は当然のようにプロの世界へ。 輝かしい未来が待っているはずだった。 が 次回へ
1, いわし太鼓と出会う
初めて太鼓をたたいたのは小学校三年生。 地元大磯の神社で祭囃子の練習だった。 4年生から入った小学校の合唱団では音楽は苦痛の種だった。 なぜなら、その合唱団は名門校で、全国1位が当たり前、 2位で苦笑い、3位で怒られるという超スパルタ教育で 毎日朝早くから夜遅くまで練習だった。 褒められたことなど殆どなかった。 でも太鼓は違った。 あるとき太鼓の指導をしている鬼のように怖いお兄さん(この人は今でも現役)に言われた、 「お前ぇ 太鼓うめぇなぁ オイ」 という言葉が私の人生を大きく変えた。 学校でも合唱団でも公文でも家庭でも個人的に褒められるということが 殆ど無かった私が赤の他人に褒められたのだから。 その帰り道、私は確かに 「将来は毎日太鼓をたたく仕事がしたい!」 と思ったのを覚えている。 正直言ってお祭り当日はどうでもよかった。 練習を真面目にやっていない連中がお祭りの日には山車を占領 しているのもムカついたし、終わってしまう寂しさの方が 先に立ってみんなと一緒にはしゃげなかった。 それでも各町内の上手い人しか乗れない山車に乗れるのは 名誉なことだったし1年間の中で自分が最も輝いている瞬間だったと思う。 小学校高学年になっても太鼓は続け、中学生になっても もちろん続いていたが、その頃になると 「他の町内にスパイに行こうぜ〜」 と言いながら、好きな女の子のいる町内へ行ったこともあったし 「お前誰が好きなんだよ〜」 と言う話を神社の裏でしたりもあったが、 すぐに戻ってやっぱり太鼓を叩きまくっていた。 高校では部活もあり、たまに行ってちっちゃい子に教える 程度だった。(その時の子が今ではバーテンダーやってたりする。) 時が経ち、今(30歳)ではこの北下町で太鼓と言えばいわし君と 言われるようになり、毎年子供に太鼓を教えている。 町内役員の引継ぎ時の申し送り事項に 「太鼓はいわしさんに頼む」 と書いてあるそうで・・・ 光栄です。 時々、お手本として、太鼓を叩くときには 「ああ 帰ってきた」というような、なんともいえない気持ちになる。 何のプレッシャーもなく、気負いもなく、狙いもなく、反骨精神もない "太鼓が好きなだけの ただの少年"に戻れる。 外に向かって派手な活動がどんどん増えている現状で、 こういう場所が自分に与えられていると言うことがどんなに心強いことか。 こういう場所があるからこそ自分は派手に自由に どんなことでもできるような気がする。 いつまでも変わることなくただ受け入れてくれる場所があるから。



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