1.八重山の唄に出会うまで
2.かちねこA石垣島へ
3.小浜島
4.アブラ虫?
5.博士
6.やぎ狩り
7.居候生活
8.特訓開始
9.賞味期限、すぎてます!!
10.抽選会
11.緊張!
12.石垣島へお引越し!…その前に。
13.仕事がみつかった
14.アパート探し
15.わたしの部屋
16.貝コレ
17.こわい体験シリーズその1 「ヨーン」
18.こわい体験シリーズその2 「誤解」
19.2度目のコンクールに向けて
20.目指せ! 独唱
21.治療生活
22.奄美旅行その1
23.奄美旅行その2
24.馬込唄の会
25.唄の力
26.ライブやろうよ
27.ととやデビュー
28.ユニット「かちねこ」
29.奄美道
30.とりあえず、祝 10 周年! 

30.とりあえず、祝 10 周年! 

沖縄→八重山→奄美と島を変えつつ、ではあるけれど、唄・三線を始めて丸10年が経過した。 これからどうしよう? どんな風に、島の音楽とかかわっていったらいいのだろう? まさか、10年目にして、こんな悩みを抱えるとは思っていなかった。 去年からずっと、もやもやを引きずってきた。 悩んだときは、初心に帰るべし、と思っての「島バナ」でもあった。 この10年、自分のやってきたことを振り返って、文字にしてみれば、少しは何かが見えるかな、と。 悩みの真っ只中にいた去年、「そうだ、原点回帰だ、石垣島へ行こう!」と、かつての自分の情熱を求めて、 6年ぶりに石垣島へ行ってきた。飛行機が着陸態勢に入ると、島の景色が窓からよく見えた。 さんご礁に守られた美しい島が、なつかしく視界に入ってきた。 空港を降りると、いっきになつかしさがこみ上げてきた。 が、うわさ通り開発が進み、なつかしい景色の中にも、新しい建物やお店が並び、時間の経過を実感させられた。 情緒たっぷりだった離島桟橋に船が発着することはなくなり、新しいターミナルができていたのが、一番ショックだった。 街中を歩く人々も変わった。おしゃれな都会人らしき観光客が増えたようだ。 かつてはTシャツに島ぞうり(ビーチサンダル)首にはタオルが定番だったが、今じゃハイヒールにミニスカート、それに美白。 なんだか、つまらなくなったな…。 勇気を出して、亘先生の新しい家をたずねてみた。 私が通っていた頃の、赤瓦の家には、もう住んでいない、ということも残念に思った。 玄関にパパイヤの木が1本にょきっとあって、バイーン!と勢いよく開く木戸があって、入るとミーコが寝そべっていて… 古いけど味のあるいい家だったなぁ。 新しい家は、大きなコンクリート打ちの建物で、なんとなく、よそよそしい雰囲気があった。 広い庭には犬までいるぞ…。ミーコはどこ?亘先生といえば、溺愛していた猫のミーコでしょ? 6年ぶりの石垣島だったが、その間、亘先生と音信不通になっていたわけではない。 むしろ、よき理解者だったと思う。私が奄美島唄を本格的にやるために、八重山古典をやめるときも、 籍だけ残してくれたり、「こんど東京でライブやるときは、アヤちゃんの今やってる唄やってごらん」と言ってくれたり。 もちろん最初は大変だった…良い関係になるまで時間がかかった。 ようやく亘先生に直接会って話しができる。また一緒に唄えたらいいな、という思いもあった。 ところが亘先生は、「アヤちゃんが石垣島に戻ってくる」と勘違いしたのだ。 すれ違った思いは、とうとう爆発炎上、粉々になってしまうのだった。 広い部屋は整然としていて、散らかっていないことも、居心地が悪かった。 部屋にホワイトボードまであり、演奏や指導のスケジュールが書き込まれていた。 亘先生の教室は大きくなっていて、その生徒のほとんどがナイチャーであった。 赤瓦の家では、マーコネエやミネさん、由美ちゃん、大森くん…これだけの生徒だったが、家族のように仲良くしていた。 ミネさんは前の年に亡くなっていて、私の石垣島は思い出だけとなっているようだった。 まずい、年寄りみたい。走馬灯のように思い出が駆け巡るなんて、死んじゃう人みたい。 ミーコが擦り寄ってきたので、ようやくホッとした。 亘先生と、最近の生徒さんと、オリオンビールを傾けながら、なつかしい話や、近況などを話した。 亘先生の気持ちも知らずに、「また、新しい唄を覚えて帰りたいな」と言ったとたん、ブチッと切れてしまい…。 「何しに戻ってきた!教師を目指す覚悟で来たんじゃないならもう来なくていいよ!」と言われてしまったのだった。 ありがたい気持ちではある。奄美に転身し、6年もごぶさたしているナイチャーに、そこまで期待をしてくれていたことは、 感謝すべきことなのだ。でも、教師になって八重山古典を教える立場になることは、もう想像できない。 10年経過してわかったことは、自分は唄が好きなだけなんだな…と。 カラオケ歌ってるだけならば、好きだから歌いまーす、で良いのだろうが、島の歴史、想い、がたくさん詰まった、 島の唄を、ただ好きだからと言って唄っているのは、間違っているのかもしれない。 でも、それが事実。認めたくないから悩んでいたのだと思う。 この「島バナ」を書き出してから、ある言葉を思い出すことができた。(「1 八重山の唄と出会うまで」に登場) 「それぞれの島にいい唄がたくさんあるから、島人でないことを逆手にとって、いろいろやってみたらいいよ」 那覇の飲み屋で出会ったおじさんの言葉だ。 それは亘先生や、奄美の朝崎先生の教えや想いに反することだ。 でも、私はこれで行く。 次の10年へ、進め!
29.奄美道
いとこの結婚式で演奏をすることになった。 沖縄三線と奄美三味線2丁を引っ提げて、 「朝花節」と「かたみ節」「安里屋ゆんた」を唄った。 酒に酔った、知らないおじさんたちから「良かった」と声をかけられ、安心したのも束の間。 親戚の正彦おじさんから「アヤちゃん今日変な感じだったね。」と言われてしまったのだ。 「奄美の島唄はまだ自分のものになってなくて中途半端だったし、 安里屋ゆんたは馴れ合いすぎる感じで、へーんな感じだった。あれはダメだね。」 と、にこにこ笑いながら、的をついてきた。 おじさんは音楽よりゴハンが好き。超がつくほどの食いしん坊(グルメと言った方がいいか)。 親戚が集まったときに、何度か演奏したことがあったけれど、一度もそういう話をしたことがなかった。 わたしも笑って聞いてはいたが、かなりショックだった。 「自分がうすうす感じていること」って、むしろストレートに伝わってしまうものなのだ…こわい、と思った。 奄美島唄をもっと上手に唄えるようになりたい、と思いながら、八重山古典民謡も捨てきれない。 どっちもやりたい。 それぞれに、それぞれの良さがある。 三味線のタナカ先生から言われたことがある。 「どっちもやるなんて無理だよ。どちらも中途半端になって、もったいない。 テニスでも硬式と軟式、両方やってる選手なんていないでしょ。似て非なるもの。」 そういう宙ぶらりんの状態は、奄美島唄の師匠、朝崎先生からみても、はがゆかったのだろう。 「持っているもの、すべて出し切ってちょうだい。」 今まで月1回の馬込唄会とは別に、個人的に稽古をつけてくれることになった。 奄美島唄が自分のものになるまで、八重山は封印だ。 奄美島唄をやる!覚悟を決めた。 大げさみたいだけど、そのくらいの気合を入れていかないと、おいてけぼりになる。 朝崎先生との稽古はいつでも、真剣勝負なのです。 毎年、ちょうど“母の日”の頃、奄美大島で「奄美民謡大賞」というコンクールが開催される。 うれしいことに、04年から3年連続入賞を果たすことができた。 最初の年は、特別賞もいただいた。 「最高の母の日のプレゼントだったわね」と、今、言われると、母の圧力を感じるのであるが。 06年、3年目のコンクール直後に、また、やらかした。 月がきれいだったので、ベランダに出て唄いたいな、と思った。 よろけて奄美三味線をボキっ と折ってしまった。 石垣島ではコンクール直後に口があかなくなった。そして奄美につながっていった。 三味線が折れたこともまた、節目を迎えているサイン?? 単におっちょこちょい、って話もあるんですけど。
28.ユニット「かちねこ」
『ととや』で出会った太鼓の太郎くんと、一緒に演奏する機会ができた。 大磯「宿場まつり」で、太郎くん率いる和太鼓グループ「神和座」のステージがあるといい、 そこでゲストとして演奏を、ということだった。(ゲスト、という響きがこそばゆい。) 秋の「宿場まつり」は見事なる晴天。朝から直射日光が強烈であった。 祭りだからネ、と5年ぶりに琉装を試みた。 沖縄民謡を川崎で習っている頃は、“ステージ衣装”も揃えなければならなかった。 「髪を伸ばすように」と言われ、不本意ながらも頭頂部でチョンマゲが作れるほどの長さまで、がんばった。 カンプーという琉球独特のヘアースタイルを、かつらを載せて再現し、なんちゃって紅型着物でステージに上がっていた。 その当時の衣装がごろごろ眠っていたのである。 わたしには、自覚している欠点がある。そのうちの一つは、気合が入れば入るほど、間違った選択をしてしまう、ことだ。 宿場まつりでの琉装だってそうだ。いくつかあるなんちゃって琉球着物のなかでも、一番センスの悪い(アンド似合わない) ド・ピンクの絣だし。とっくに髪切っちゃってるし。その日に限ってコンタクトが入らず、メガネだし。 六本木ノチェーロでライブをやったときも、「コーナーポケット」の長岡マスターから、 「衣装をちゃんと考えなさい」と、言われてました、そういえば。 (その後もステージ衣装の失敗は懲りずに続く。ようやく最近になって、まともなのは唯一「和服」、というところで落ち着いている。) 宿場まつりをきっかけに、太郎くんとは「ユニット組んでライブしよう」と、つながって行くことができた。 「ユニットの名前、必要じゃないすか?ユニット名つけましょうよ」 ということになり、お互いにいくつか案を出し合って、決めることになった。 わたしには一つだけ、使いたい名前があった。 『カチネコ』 でも、これを使っていいかどうか、親友モチーナの了解を得る必要があった。 話はまた、川崎で沖縄民謡を習い始めた98年にまでさかのぼる。 仕事帰りの趣味として始めた唄・三線にどっぷりハマるまで、そう時間はかからない。 その頃わたしは、A新聞社の契約社員として世論調査室で働いていた。 同じ時期に採用された、選挙本部のモチーナと気が合い、こっそり仕事を抜け出しては(バレてるけど) 非常階段の踊り場や渡り廊下などで落ち合って、おしゃべりに花を咲かせていた。 わたしは沖縄民謡教室、モチーナはシナリオライターの学校に通っていて、お互いやっていることは違っても、ハートの温度は同じ。 自分たちのステップアップを夢見て生まれたのが『カチネコ』なのだ。 正確にはカチネコ・ウインナー。負け犬になったらだめさ、勝ち犬さ。勝ち犬ならむしろ勝ち猫だね。 ウインナーはウィナー=勝者。勝ち勝ちスピリットを込めて。でもウインナーの方が美味しそうだし。 そうだ「カチネコ・ウインナー」という店をやろう。 カチネコ・プロジェクトとして、いつかコジーナをモデルに「暴れシーサー/女一代記」を書くよ。 モチーナも、今や一児の母。活動再開まで、もう少し時間がかかるかもしれない。 『カチネコ』生みの親モチーナに、「ユニット名で使いたいんだけどいいかな。」と聞いてみると、もちろん返事はオッケー。 太郎くんが考えたいくつかの案をのけて、『かちねこ』(なんとなく平仮名)となった。 うまい具合に、二人とも猫好きで、性格も一部猫的なところありで、ぴったりの名前じゃないかな?と。 石垣島の亘先生が知ったら、頭から大噴火だろうけど… 勝手に“かちねこテーマソング”と言っている民謡もある。 八重山古典民謡の中に、猫の唄が2曲ある。 「まやユンタ」と「与那国ぬまやぐわー節」をセットにして、テーマソングとさせて頂いております。 (八重山方言で、猫のことを“まや”と言う) さらにこれを知ったら… 亘先生… ああ。ごめんなさい。 「まやユンタ」は、猫の鳴き声がお囃子で出てくる。大変可愛らしく「マタ ミャウミャウ」と唄う。 ライブでは、お客さまに参加してもらって、「マタ ミャウミャウ」を一緒に唄ってもらっている。 太郎くんは毎回、「じゃあ手をこうして。両手でもいいですよ。」とか言って、招き猫のような手を作らせる。 そして必ず「あ?違うんだな?。猫の肉球をちゃんと作らないと。親指をこうして。そうそうそう。」 と嬉しそうに、指導している。 ところでまだ、モチーナは『かちねこ』ライブを見ていません。
27.ととやデビュー
「口が開かない事件」から、1年が経過。 そろそろ、全開で唄ってみちゃっても良いでしょうか? 歯医者からもオッケーサインが出た。 ただし、寝るときだけはマウスピースを装着しなさいとのこと。 新しく作ってくれたマウスピースは、ソフトタイプになり、だいぶ楽になった。 がしかし、「小島さんだから、緑色で作ってみました」と、なぜか緑色のマウスピースで、 妹しのから、 「げ!アヤちゃんエクソシストみたい!」 と言われてしまったのだけど。 元気になったら始めたい、と思っていたことの一つに、“地元でのネットワーク作り”があった。 高校3年のときに、いまの鎌倉腰越に引越してきたので、地元の友達が少ない。 うわさで、湘南エリアに沖縄三線サークルがあるらしいとか、沖縄料理の店があるとか聞いていたので、 ぼちぼち顔を出してみようかな、と思っていた。 そういう話しを母にしたら、 「わかさんが、大磯に沖縄が好きなご夫婦の店があるから行ってみたらいいかもよ?って。」 わかさんと母とは、美容学校時代からの付き合い。成人式は、わかさんに着付けと化粧をしてもらった。 直接話しを聞いてみようと、わかさんに電話をすると、 「楽器持ってきたらいいわよ!私にも聴かせてちょうだいよ。」 一緒に飲みに行くことになった。 手帳を見たら、2002年の9月28日、となっていた。「雨、寒くてセーター出した」とも書いてある。 (…やっぱり雨だった。) 大磯「ととや」に初めて訪れた日だ。 「ととや」は不思議な雰囲気のお店だった。 小さなお店の天井では、カタカタカタと小さな音をたてて、銅製のオブジェが“働いて”いる。 シーラカンスが空中を泳ぐ。魚の骨のような妖精たちが、おどけた顔でシーラカンスを操縦しているかのよう。 「ととや」のご主人、井村隆氏の作品だった。 一方、カウンターには泡盛の瓶が並び、メニューにはゴーヤチャンプルーやトウフヨウなど沖縄料理の数々。 「ととや」のママ、忍さんは初来店の私を快く迎えてくれ、 「わかる人にしか出さへん」 と、ニッと笑って、波照間島の幻の泡盛「泡波」を出してくれた。 また、入手困難だった石垣島の「石垣島ラー油」まであった。 いったいぜんたい、この店はどうなっているんだ?! お酒もまわり始め、何か唄った、と思う。 忍さんは喜んでくれ、電話をかけて、ご主人を呼び出してくれた。 隆氏は三線をかかえてやって来た! あの「鷲ぬ鳥節」を知っていると言う! 大磯で、八重山古典民謡を一緒に唄ってもらえるとは思ってもみなかった。 沖縄民謡を知る人はいても、八重山古典を唄える人とは、まだ出会ったことがなかったのだ。 「自己流やけど鳩間節も覚えとるよ」 なんとー! いっきにテンションが上がり、久しぶりにたくさん唄った。 口が開かなくなって以来、初めて「小浜節」も唄った。 隆氏と忍さんは、20年も前から、すでに波照間島を行き来していた、先取り夫婦だったのだ。 沖縄ブームがやってくる前の、素朴な島々を知っている人が、大磯にいた。 忍さんがまた誰かを電話で呼び出している様子。 そう、カチネコ相方の太郎くんだ。 初めての印象は、ひょろ高くてぬぼーっとしてておとなしい、自分よりずっと年上の人だと思っていた。(しし失礼!!) もう一人は、愛称ぞうさん、蔵座さんである。 ぞうさんは、10年前に奄美シマ唄をやったことがあるという人だった! 太郎くんの太鼓、ぞうさんのギター、忍さんは小皿を沖縄の“四ツ竹”のようにして、カチャ、カチャ、とリズムをきざむ。 こんなに気持ち良く唄えたのは、生まれて初めてだろう。 わかさんには本当に、心から感謝したい。 「ゴーヤジュース、ジン入り」も美味しかった。 「ととや」は時間の流れが、まるで島のようだった。 ああ…不思議な大磯の夜は更けていく………。
26.ライブやろうよ
「楽器を持って遊びにいらっしゃい。」 長岡マスター&ママから、お誘いがかかった。 石垣島へ移住する直前に会って以来の再会だ。 長岡家は、誕生会や新年会、花火大会などのホームパーティを楽しむご家庭。 靴のまま家に上がり、英語が飛び交い、招待客の面々もセレブな雰囲気が漂っている。 そんな空気になじめない私は、キッチンに入って、ママの手伝いをする方がしっくりくる。 かつての“従業員”でもあるからだ。 私が二十歳頃の話にさかのぼる。 当時はボサノバなど、ブラジル音楽にはまっていて、自分でも唄ってみたいなぁ、と思っていた。 とりあえずブラジルに数ヶ月間行ってこよう、と思ったのだが、とりあえず行く場所ではない!と、 家族や友人から反対された。その極端な思いつきに“乗って”くれた旅行会社の先輩が、 「ヴァリグ・ブラジル航空の友人を紹介するよ。」と言ってくれ、成田空港事務所まで会いに行った。 ブラジル航空のカイさんが、「都内で活動しているブラジル音楽バンドがある。」と紹介してくれ、 リーダーの加々美淳さんに、電話をかけてみた。 淳さんは「こんど自由が丘のレストランでライブをやるので、そこで会いましょう。」と言ってくれ、 自由が丘のライブレストラン『コーナーポケット』に行くことになった。 長岡マスター&ママとは、そのときが初対面である。 XACARAのリーダー淳さんに、「教えて下さい。」とお願いしたが、 「ボーカルだけじゃ通用しないから、何か楽器もやった方がいいね。」とか、 「ボサノバはポルトガル語だけど、語学強い?」と、やんわりお断りされた。 一番印象に残る言葉は、 「ぼくは作曲するのに努力しなかったね。努力して曲を作るなんて、才能がないんだよ。」 こんな言葉を言い放っても、全く嫌味がなく、明るさと自信に満ちた、素敵なおじさんなのだ。 淳さんの人柄と音楽が好きになり、ライブには欠かさず通うようになった。 そのうちXACARAのパーカッショニスト今福健司さんと仲良くなり、彼の影響を大きく受けた。 私が唄・三線を始めたきっかけは、もしかしたら、今福健司さんかもしれない。 今福さんが、THE BOOMのCD「極東サンバ」のジャケットに起用されることになった。 もちろん、パーカッショニストとして楽曲に参加しているのだが、 彼のブラジル顔?が、「極東サンバ」のイメージにぴったりだったのだろう。 THE BOOMは『島唄』を世に出したバンド、その程度で、その頃はあまり興味がなかった。 今福さんが参加しているならCD買って聴いてみるか、と思った。 「極東サンバ」を聴いて、THE BOOMのファンになり、私のカラオケの持ち歌は『島唄』となる。 私も何か音楽をやりたい。 自分ができる音楽は何かないか?年を重ねても続けていける音楽はないのだろうか? 「音楽の世界へ!」の思いが強くなっていった。 …旅行会社を辞めた。『コーナーポケット』で働かせてもらうことになった。 毎晩、生の演奏を聴くことがきた、貴重な1年間だった。 『コーナーポケット』でバーテンダーをやった話、「お店をやらないか」とスカウトされた話、 楽しいネタはあるけれど、『島バナ』に帰ろう。 長岡マスター&ママに招かれたホームパーティーで、まだおそるおそるの発声で演奏をした。 奄美シマ唄は「朝花節」もうろ覚えで、披露できるものではなかったので、 久しぶりに八重山古典民謡に挑戦してみた。 その中でも顎の負担が少なそうな曲を選び、2曲唄い終わると、 「面白いじゃん。もっとやってみて。」と、長岡ジュニアの敬二郎さんが、太鼓を持って、横に座ってきた。 私が見ている楽譜・工工四を覗き込み、 「ヒョホー?ははははヒョホーかぁ。いきなりヒョホーって面白いね。」 「まるまぶんさん節」の歌詞を見て喜ぶ敬二郎さんだった。 敬二郎さんもプロミュージシャン。ジャズドラマー、ブラジルなどのパーカッショニストとして活躍している。 亘先生が見たら“お冠”だろうな…。 と思いつつも、ポコポコとリズムが刻まれる民謡は、一味違って楽しいものだった。 「ライブやろうよ。」 えっ 私がプロのミュージシャンと?? やってみたい気持ちの方が強くて、二つ返事で引き受けた。 敬二郎さんと、ピアニストの水内さんと、六本木ノチェーロでライブ実現の運びとなった。 …が、常に亘先生の激怒した顔が思い浮かぶ。 勝手なことするな!教師になるために稽古に励みなさい!早く石垣島に帰って来なさい! 私はまだ、奄美シマ唄のこと、ライブのことを、亘先生に言えずにいたのだった。
25.唄の力
「石垣島へ帰るのヤーメタ」と思ってしまった私は、そのまま鎌倉の実家に居座った。 これも、おかしなめぐり合わせだが、顎関節症になったことがきっかけで、石垣島の彼氏ができた。 カヲルちゃんと初めての奄美旅行を終えて間もなく、石垣島へ帰ったことがあった。 そのときに、いろいろと手を貸してくれた男友達である。 通院のために、時々帰郷することになるし、「うちに来たら」と言ってもらい、二人暮らしとなった。 そして、治療ついでに、カヲルちゃんが通っている奄美三味線教室の見学をさせてもらったら、 馬込唄会にも参加することになり、朝崎先生の生の唄声に、魂を奪われてしまった。 本屋さんにぶらり入れば、タイトルにも、やられてしまう。 『音の力 沖縄   奄美/八重山 逆流編』 なんじゃこれは!私のことですかー! ひとり静かに興奮し、もちろん購入して、いっきに読んだ。 いろいろな方たちが寄稿している雑誌的な本だったが、頭の中を整理するには、もってこい。 そもそも、私が沖縄民謡を始めるきっかけとなった、THE BOOMの「島唄」の話だとか、 八重山古典民謡は「保存」という立場をとるようになってから、唄に面白みがなくなっただとか、 奄美にはいまも唄が生きている、、、いちいち「うんうん!」という感じで、読み終えた。 ついに。 「どうしても奄美シマ唄をやってみたい。石垣島には帰れない。」 わがままとは思いつつ、どうにも止められず。 衣料品は彼氏にまとめて段ボールで送り返してもらった。 まあ、これが原因の全てではないが、結局、1年後には“破局”を迎える。 遠距離で1年も続いたのはすごい、と思っているけど。 顎関節症も、半年を過ぎてだいぶ良くなってきていた。 醜い顔になる矯正器具は卒業し、“マウスピース”を寝るときだけ装着すればよい、というところまで来た。 そろそろ唄ってみても、いいんじゃない? 自分では、そのくらい良くなっている実感があったが、歯医者は「NO」。 唄う、というのは、けっこう顎に負担をかけるものなのだ…。 八重山古典民謡は、「顔で唄っていた」という感覚がある。 とにかく大きな声で、できるだけ高いキーで唄いなさい、という指導で学んできた。 「裏声に逃げるな」とも言われ、高音も踏ん張って踏ん張って、発声しなければならなかった。 「1曲唄い終わったら、ハァーとくたくたになっているようでなければ、八重山古典じゃないよ!」 これは何度も亘先生に言われた言葉だ。 昔の人たちは苦労してきた。その苦労の中で生まれた唄。楽に唄ったらご先祖が泣く。 とくに、私が習った八重山古典の中でも「しょんかね節」と「崎山節」は悲痛な叫びのような唄で、 唄うときは、精神的にも、体力的にも、相当な覚悟がいる。 高音域は、顔の骨や筋肉が、懸命に発声を支えていたように思う。 唄い終わると、亘先生の言葉通り、「ハァー」どころか、ぐったり、顔が痛くなっている。 私にとって、ハードな歌唱法だったのかもしれない。 一方、奄美シマ唄は、八重山古典でご法度とされる“裏声”が特徴の唄だ。 地声で出せる音程でも、のどをひっくり返して、裏声で唄う。 低音からいっきに高音になり、起伏の激しい山のように、めまぐるしくメロディーが変化する。 顔で唄う八重山、のどで唄う奄美。 これは私個人の感想ですが。 約8ヶ月間、唄うことができなかった。 3度目の馬込唄会で、おそるおそる唄ってみた。 録音した唄を繰り返し聴いていたので、なんとか「朝花節」のメロディーを口ずさむことができた。 おそるおそる…これが力まずに唄うことにもなり、あきらかに八重山古典時代とは違った唄い方になっていた。 それなのに。 生徒の中に、沖縄民謡同好会にも入っているという青年がいて、 「コジマさんのシマ唄、八重山風でいいです。」と言われた。 私はこの時、「八重山風なんていやだ、奄美の人が唄う、奄美シマ唄に近づきたい!」と思った。 いつの間にか体に染み付いていた、八重山古典民謡。 このことを良し、とは思わなかった。
24.馬込唄の会
憧れの唄者、朝崎郁恵さんに会える! 奄美三味線教室のタナカ先生が、見学で来ていただけの私にまで、 「馬込唄会に来てみたら。」と声をかけてくれたことは、本当にありがたかった。 カヲルちゃんと二人で、「なんだか信じられない展開だね!」と話した。 「馬込唄会」は、タナカ先生の祖父である、通称「コオル兄さん」を偲ぶ会でもあるようだ。 奄美三味線の名手だったコオル兄さんの葬儀の席で、タナカ先生は初めて三味線を弾いたという。 それまでギター少年だったタナカ先生が、この日をきっかけに三味線奏者としての人生を歩むことになった。 かつてはコオル兄さん、そして孫であるタナカ先生の伴奏で、朝崎郁恵さんは唄っていたのだ。 どういうわけか、馬込でも、カヲルちゃんと私は道に迷い、墓地に出て、大回りをして、やっとこさ辿り着いた。 唄会の場所は、タナカ先生の祖父母宅。 玄関を入ると、すでに沢山の靴が並んでいた。 通された部屋には、袴姿のコオル兄さんの大きな写真と、仏壇がある。 ずらりと三味線が“ぶら下がって”いる光景は見事だ。どれも、こだわりが感じられる、高そうな三味線ばかり。 奄美三味線と沖縄三線は、どちらも蛇皮で見た目は同じ。 三本の絃の細さと、撥(爪)に違いがある。 奄美のコロコロ乾いた繊細な音色は、細い絃の上を、左手の指が絶え間なく行き来したり、 竹撥を引っ掛けるようにして弾く奏法が生み出しているようだ。 沖縄三線は、水牛の角製の爪を、絃に置くようにして、「ぼん、ぼん、ぼん」と弾く。 ゆったりした空気をかもし出す音である。 奄美と沖縄、地理的にもそう遠くないのに、音楽性の違いには驚くばかりだ。 私とカヲルちゃんは、部屋の隅の席に座って、緊張していた。 テーブルを挟んで、向かいに座っている女性も、なんとなく緊張した面持ちに見える。 なごやかな島人と、緊張気味の人が数名、そんな雰囲気の中、ガラガラガラと戸が開いた。 「ウガミショレー。ハゲー今日はいっぱいだねー。」 朝崎郁恵さん!! いや、今日から朝崎先生!! 「うわぁ?」と小さく漏らすカヲルちゃん。 朝崎先生は、仏壇に手を合わせてから、席についた。 二時から始まった唄会。 まずは緊張した人たちの自己紹介。向かいの女性も、この日は初参加だったようだ。 朝崎先生は「今日初めての人がたくさんいるから、ひとつひとつ唄の解説をしてから唄おうね。」と言って、 ていねいに、わかりやすく話しをしてくれた。 「これは、ごあいさつの唄だから、最初に唄うんですよ。」 朝花節 ハレイ 稀稀 汝きゃば拝でぃ ハレイ 神ぬ引き合わせに ハレイ 稀稀 汝きゃば拝でぃ 『海美』の神秘的な唄声に惹かれていた私だったが、奄美シマ唄の歌詞のすばらしさに、再びショックを受けた。 口が開かなくなって、「独唱・小浜節」の夢が破れて、でもそれがきっかけで今ここにいるのは、「神の引き合わせ」なのかも! …そう思いたかった。朝花節の歌詞が、すっと心に届いてきた。 朝花節は、一人一節ずつ唄い回しをしていた。 それぞれが、自分の好きな歌詞を、好きなように唄っていた。 今まで自分が勉強してきた沖縄民謡、八重山民謡には「工工四」という楽譜があって、正しい唄い方が決まっている。 楽譜がない! これぞ唄の醍醐味ではないか! 至近距離で聴く朝崎先生の唄声に、あらためて感動。 「もう石垣島へ帰るのヤーメタ」と思った。 この日一度限りの「馬込唄会」と思っていたのが、毎月参加することになった。 たくさんのシマ唄を聴き、最後はタナカ先生の祖母の手料理までごちそうになり、8時すぎまで居座った。 「来月も楽しみだね!」 「私は… 無理だ。すごすぎてついて行けない…。」 帰り道、カヲルちゃんは感動を通り越した様子で、そうつぶやいた。 そして、「馬込唄会」にも奄美三味線教室にも、その後参加することはなかった。
23.奄美旅行その2 『海美』との出会いは偶然だった。(→「13.石垣島へお引越し!…その前に」) たった3曲だけのミニアルバムだったが、その神秘的な唄声の“とりこ”になっていた。 声の持ち主である朝崎郁恵さんは、加計呂麻島出身であると解説に書いてあった。 『海美』のとてつもない吸引力の原点を、「諸鈍シバヤ」という祭りに見ることができるのでは? と思って、カヲルちゃんを誘い、無茶をして、はるばる加計呂麻島までやってきた。 でも、「諸鈍シバヤ」=「諸鈍芝居」では、期待した島唄を聴くことはできず、二人の正直な感想は、 「なんだかよくわからなかったね…。」 というものだった。 最後まで祭りを見ることなく、加計呂麻島から奄美大島本島へと移動。 せっかく来たからには、島唄を生で聴きたいけれど、2泊3日の日程で時間もたいしてない。 沖縄では、唄を聴かせてもらうことは容易だ。 民謡スナックに行くと、お店の歌手による唄も悪くないが、ステージに飛び入りした、おじいおばあの唄が最高。 昼間は、数多くある民謡教室の見学者となれば、たくさん“正調”の唄を聴くことができる。 奄美については、ガイドブック1冊分の情報しか持っていない。 もっと時間があって、もっと普通に話しができる健康状態だったら、聞き込みで唄者を探せるのだが。 「郷土料理かずみ」という店がガイドブックに載っていた。 お店のおかみ、かずみさんは奄美民謡歌手で、もしかしたら島唄が聴けるかもしれない、と紹介されている。 「行ってみよう!」 2日目の夜は、郷土料理かずみに決定。 ガイドブックの地図で見ると、そんなに遠くない場所のようなのだが、なにせ二人そろって方向オンチなので、危うい。 うろうろ夜道を歩いていると、なぜか暗く寂しい墓地に出てしまった。 「お墓だ…。こういうこと、よくあるんだ。」ぼそりカヲルちゃん。 あいかわらず、ちょっとホラーな人だった。 うんと遠回りして、郷土料理かずみに無事?到着。 小ぢんまりしたお店には、島人らしいお客さんが数名、お座敷に入っていた。 私たちはカウンター席に案内された。 目の前で、料理を作っているのが、かずみさんだ。ぜひ、唄ってほしい! 私でも咀嚼可能そうな、大根などお野菜の煮付けをオーダーし、静かに乾杯。 静かな二人に違和感を覚えられる前に、カヲルちゃんが例によって「顎関節症でしゃべれない」旨を、伝えてくれる。 島唄を聴きたいとお願いしてみると、かずみさんは、 「三味線を弾く人が来れば、唄ってあげられるんだけど。」と言った。 「唄だけでも聴きたいです。アカペラで唄ってください!」 私の心の声を、ここでもまた、カヲルちゃんは代弁してくれたように思った。 かずみさんは、フライパンを返したり、ダシの味をみたりしながら、まるでお母さんが台所で鼻歌をうたうような、 自然な雰囲気の中で、たくさん唄ってくれたのだった。 朝崎郁恵さんの神秘的な唄声とは違うけれど、たっぷりとした、あたたかな声、美味しい料理を作る人の唄声だった。 幸せを感じている頃、一人の男性がお店に入ってきた。 「あなたたち良かったねぇ。三味線する人よ?。」 かずみさんは、料理の方が落ち着くと、男性の三味線に合わせて唄ってくれた。 今度は、5名くらいのグループが、お店に入ってきた。郷土料理かずみ馴染みのお客さんのようだ。 「Nさん!東京の人たちが来てるよ。島唄が好きなんだって!」 Nさんというおじさんは、東京からたまたま帰郷中で、お店に顔を出したらしい。 みんな一つになって、宴会状態と化した。 ううう……もっとバカ笑いしたいよ??しゃべりたいよ??……。 薄笑いだけの自分が悲しかった。 翌日Nさんたちも、同じ飛行機で東京に帰るという。 Nさんは、東京で奄美三味線を教えている人物を紹介してくれた。 空港で再会したときには、「三味線習いたいんだって」と、電話までしていた。 …といっても、私は治療中。それに、しばらくしたら石垣島へ帰るのだ。アパートもそのままになっている。 身軽なカヲルちゃんだけは、すぐに奄美三味線教室に通うことになった。 そして半年後。 ついに私も、奄美三味線教室へ足を踏み入れた。 まだ石垣島に住民票もあり、顎関節症の治療で帰郷していただけなので、あくまでも見学のつもりで。 自由が丘のT先生は、30代のイケメン三味線奏者だった。 T先生に『海美』がきっかけで奄美島唄に興味を抱くようになった、と話しをすると、 「それなら来週、馬込で唄会をやるので来ますか?朝崎さんが教えてくれるので。」 「行っていいんですか!!ぜったいに行きたいです!!」 あの、『海美』の、朝崎郁恵さんの唄を、間近で聴けるとは夢のようだ。 不思議なカヲルちゃんという存在が、奄美への道を照らしてくれたのだ。
22.奄美旅行その1
ストレスがたまる毎日。 おなかが空いて食べたり、テレビを見て笑ったり、無意識でやってきた事すべてに制限がある。 それに変な顔。 人と会うこともできない。 ストレス解消の方法は、メールでのおしゃべりと、音楽鑑賞、愛猫くーにゃん。 (愛犬ジャックは激しいので、治療中は一定の距離を保つ。) 鎌倉稲村ガ崎で聴いた、奄美民謡がずっと気になっていた。 石垣島へ引越してからも、飽きずによく聴いていた『海美』というCD。 アパートにカヲルちゃんが遊びに来た時に、『海美』をかけたら、彼女も早速、ファンになった。 以来、奄美に対する憧れの気持ちを共有する友となった。 顎関節症の治療中は、『海美』になぐさめられ、時には落ち着かなくなった。 そしてとうとう我慢の限界。気になって気になって仕方がない。 「国の無形重要文化財の祭り、諸鈍シバヤに行かない?!」 姿勢を正して、カヲルちゃんにメールを送った。 前しか向けない。ほとんどしゃべれないから筆談。食べれない。 こんな人と一緒に、旅行してくれるなんて、カヲルちゃんは本当にいい人だ。 ちょっと無茶をして、初めての奄美大島へ、2泊3日の旅行をすることにした。 治療生活が始まってから、2ヶ月経過した頃だった。 羽田空港でカヲルちゃんと数ヶ月ぶりの再会。話したいことは山ほどあるけれど。 腹話術のような感じで、少しは話すが、ほとんど黙っている。 黙って飛行機に乗り、機内では、姿勢を正してガイドブックを読む。 カヲルちゃんは、少し後悔したのか、難しい顔をして眠った。 奄美でも、ずっとこんな調子の二人だった。 「諸鈍シバヤ」が行われるのは、加計呂間島という小さな島だ。 奄美大島空港から、バスで古仁屋港まで南下し、さらに高速船で加計呂間島に渡る。 もともと口数の多くないカヲルちゃんだったが、「友達は今、顎関節症でしゃべれないんです。」と、 行く場所場所で説明をしてくれた。 民宿のご主人たちは、「でも、なんでわざわざ?」と不思議に思って、来た訳を聞いてきた。 「諸鈍シバヤって有名なお祭りなんでしょう?」と、カヲルちゃんが代弁。 民宿のおかみさんは、「ああ?そんなのあるみたいねぇ。」と、何とも気の抜けた返事だった。 「なんかねぇ、テンテンテンテン、って言ってばっかりなんだよ、あはははは!」 おかみさんは、その踊り?のマネをして、部屋の中をドスドス歩いた。 カヲルちゃんは不安そうな顔になった。 翌朝、ご主人の車で、祭りの会場となる大鈍神社に向かう。 小さな島だが、起伏の激しい地形で、峠越えしなければ目的地に着くことができなかった。 道なき道を、ぐにゃぐにゃクルクルと、目の回る運転さばき。遊園地のコーヒーカップに乗っているみたい。 “民謡好き”な二人に合わせ、奄美民謡のカセットテープをかけてくれた。 ころころ乾いた奄美三味線の音色と、男性の唄う裏声、繊細なコブシ。目の回る景色に、不思議なくらいマッチしている。 こういう地形だからこそ、生まれた唄なのかなぁ?、と思う。 八重山民謡のような、どばーっと広がる海のイメージはない。全く異質な音楽に聴こえる。 車の中で聴いたのは、武下和平さんという、“百年に一人の唄者”の声だった。 「あとでまた迎えに来るから、ゆっくりしておいで」 大鈍神社に到着したときは、軽い車酔い。10月下旬でも、真夏のような日差し。 想像したよりも、こぢんまりとした神社境内に、地元の人たちがたくさん集まっていた。 その中に、観光客も少しは混ざっている、という具合。 ほら貝を吹くおじさんを先頭に、島人たちが勇壮に練り歩いて来た。 土俵で、こどもたちが相撲をとる。神に捧げる奉納芸能の一つだとか。 私とカヲルちゃんは、生の唄を聴きたいがために、ここまでやってきた。「まだかな、唄。」とカヲルちゃんが、ぼそっと言う。 ♪サーテンテン テンヨーテンテン サーテンテン テンヨーテンテン……… こんどは、棒さばきをしながら、紙の面をつけた人たちが入ってきた。 「あ。おかみさんが言ってたの、これだね。」 確かにテンテンテンテンって言ってる。腰を落として、ぐいっぐいっと歩いている。 「で、唄は?」 諸鈍シバヤは、諸鈍芝居ということらしい。 期待した唄は、ひとつも聴くことができなかった。 しかし、奄美島唄の扉は、この後に開かれた!
21.治療生活
「顎関節症ですね。 クローズドロックといって、完全にロックされて開かない状態になっています。重症ですよ。」 歯医者はさらに、 「う?ん。8日目ですか、微妙だな。開くといいんだけどなぁ。」 そ、そんなぁ……。手術なんてことになったらどうしよう。 「では肩の力を抜いて、リラックスして下さい。」 まるで閉まりの悪いジャム瓶のフタ。 歯医者は私の上顎と下顎に手をやり、慎重な手つきでガクガクと動かした。 数回の動きで、なんとも簡単に、パコッと口が開いた! 「よかった、開きましたよ!」 ああ…ほんとうに良かった。口がこんなにも大きく開いてくれている。 久しぶりに、外の明るい光が、口の中に差し込んできた。(治療台のライトだけど) しかし開いたからといって、喜こんではいけなかった。 口の開閉をスムーズにしてくれる、ローラーのような役目の軟骨ちゃんを、正しい位置に戻さなければならない。 何らかの原因で軟骨ちゃんが変形し、途中で動きを止めてしまった=口がロックされた。 原因は何だったのか?? ・唄いすぎ→何時間も練習した日は、顎(という自覚はなかったが)のあたりが、かなり痛かった。 ・偏った食生活→ふりかけごはんだけの日も少なくなかった。 ・寝不足→毎晩、暑さと、教頭先生の雑音で寝苦しかった。寝具も悪かったようだ。 ・歯列矯正のせい いくつかの原因が重なり、口がロックされてしまうという、極端な症状まで行ってしまったらしい。 前兆の症状が出た時点で病院に行けば、もっと簡単に治療ができたという。 食べたり、しゃべったりしている時に、顎がカクカク言ったら、要注意。 …言われてみれば、そんなこともあった気がする。 さて口は開いたが、完治までの道のりは長い。 軟骨ちゃんの円滑な動きを取り戻すために、極力、顎に負担をかけないことが肝心。 ふだんの姿勢や、食べ物、食べ方などに制限があった。 いつも真っ直ぐ前方だけ見ていること。横を向くのはダメ。 仰向けで寝ること。横を向いて寝るのはぜったにダメ。 なるべくしゃべらない。笑ったらダメ。 携帯電話は顎への負担が大きいので、なるべく使用しないこと。 ごはんはOKだけど、パンはダメ。 歯ごたえのあるものは一切ダメ。なるべく咀嚼しないで食べる。 ぜんぶ難しい。 さらに、軟骨ちゃんの居場所を作るための、顎のストレッチと、顎の矯正が必要だという。 ストレッチは、息を吐きながら下顎をグーっと前に出し、ゆっくりと口を開けて、また戻す、この繰り返し。 志村けんの「アイーン」みたいな顔になる。 何よりも顎の矯正が、一番辛かった。 できるだけ長い時間、矯正器具を“噛んで”いなければならない。 下顎を少し前の方に出し、歯1本分を左側にずらした状態で固定する。 矯正中はサリーちゃんに出てくる、とん吉ちん平かん太のような、ひん曲がった顔になっていた。 当然ながら、唄うのなんて、もってのほか。 「独唱・小浜節」の夢は、見事に砕け散った。 亘先生と、発表会主催の新聞社には、手紙を出した。 「完治まで1年はかかると思いますよ。」 オニ!! 歯医者に八つ当たりしたくなる心境。 この先、ご隠居のような生活しかできないのだろうか? ふふふ、そうは問屋が卸さない。
20.目指せ! 独唱
2度目のコンクールでも、トップバッターを立候補し、早起きで臨んだ本番当日の朝。 前年同様、「舞台に立つ4時間前に起きて、体をあたためてから発声をする」という亘先生のアドバイスを守った。 浴槽のないシャワールームだったので、代用品としてベビーバスを購入し、むりやり入浴。 美容室で着付けをしてもらい、亘先生の家に寄って2曲唄ってから、マーコネエの車で会場に向かった。 この年の優秀賞部門の課題曲は、本調子「赤馬節」と、二揚「小浜節」だった。 「赤馬節」は朗々と、たっぷりとした感じで唄わないと、この唄の良さが出てこない。 “聞かせどころ”がないので、軽く唄ってしまうと、のっぺりとした面白くない唄になる。 「小浜節」は唄の舞台、小浜島での思い出もある大好きな唄だ。(「B小浜島」をご参照ください) 抽選会で「小浜節」が決まったときは、やった!と思った。 「今年も独唱に選ばれたい。発表会で小浜節を唄いたい。」と欲も出てきた。 それが変な気負いとなって、日に日に発声がうまく行かず、亘先生にイライラされた事もあった。 本番直前まで、みんなに励まされた。 「先生の家だと思えばいいからね。いつも通り、さんぴん茶があって、ミーコがいて。そこで唄うのと同じだからね。」 美千代姉さんのやさしい言葉。 「アヤちゃん、呼吸呼吸。鼻からゆっくり吸って?、静かに鼻から出す?」 ヨーガの先生、やすこさんも応援に来てくれた。 「アヤ!行くよ!」とマーコネエに給湯室まで連れられ、2度目のコンクールでも、水の中に顔をボチャン。 本当に不思議なもので、水の中でしばらく息を止めているうちに、体がリラックスしてくるのだ。 恒例の儀式を終え、いよいよ本番。 もちろん緊張はしたけれど、声がよく出てくれた。「小浜節」のサビ部分の高音も伸びた。 コンクールでの演奏は、一人一人録音されていて、舞台を下がる時に、そのカセットテープを手渡される。 この録音テープに、恥ずかしい音が残ってしまった。 朝食を早くとったので、亘先生の家に寄った時点で、すでにおなかが空いている状態だった。 唄う前に食べたり飲んだりしてはダメ、と言われていたので、のどが乾いてもうがいをするだけ。 空腹をがまんしていたので、本番中におなかが鳴ってしまった…。 し?んと静まりかえっている会場で、唄の“間”に、「ぐおーーー」と派手に言ったのだ。 しかも、一度じゃあないのです。 そして2度目のコンクールの結果は。 優秀賞部門に合格。数日後、「独唱・小浜節」の通知が亘先生に届いたときは、本当にうれしかった。 しかし、コンクールが終わった翌朝に、とんでもないことになっていて、うれしいニュースに100%喜べないでいたのだった。 打ち上げの宴会で大さわぎをして、疲れ切って寝坊した朝(昼)だった。 まだボーッとしている頭で洗面台に向かう途中、“大あくび”をした。 その瞬間、グギッという音をたて、激痛が走った。 「イタタタタタ…」あまりの痛さに驚いて鏡で確認してみる。 口が開かない!!!????? かろうじて指が2本入る程度までは口が開くのだが、それ以上開けようとしても、びくともしない。 むりやり手でこじ開けようを試みたが、再び激痛がして不安になり、やめた。 こういうときにプラス思考になっても意味ないが、首を寝違えたりしたのと同じだと思い、一日二日で治るだろうと高をくくっていた。 ようやくコンクールから開放されたのだ。遊びに行きたい。 ところが二日たち、三日たち…良くなるどころか、ますます悪くなっていて、1センチくらいしか口が開かなくなった。 笑うと痛かったのが、常に痛みを感じる状態になっていた。 とりあえず、歯列矯正をした東京の歯医者に聞いてみることにした。すると、歯医者の口から出た言葉は、 「開かなくなってから1週間が勝負です。もしかすると、手術になるかもしれませんよ。とにかく一刻も早く来て下さい。」 6日目だった。早く東京に帰りたい!なのに外は嵐。すぐに帰りたくても、飛行機が出ない! 口が開かなくなってから8日目、高い航空券を買って帰郷した。
19.2度目のコンクールに向けて
そしてまた、コンクールの季節がやってきた。 1年前、ナイチャーの大森くんが最優秀賞に合格したことで、亘先生の教室は有名になっていた。 島以外からの生徒がだいぶ増えた。「シマンチューも負けられん!」と、島人の復活劇もあった。 前回のコンクールでは、大森くん、マーコネエ、ミネさん、由美ちゃん、私の5人だけだったが、 この年のコンクール挑戦者は13名。 「教えるのも勉強だから、あんたたちは新人賞を教えなさい。」と亘先生に言われ、私と由美ちゃんは、 新しい生徒カヲルちゃんたちに、課題曲6曲を指導することになった。 でも、自分たちも優秀賞の課題曲6曲をマスターしなければならない。 全日空ホテルの土産屋でアルバイトをした後、亘先生の家に直行する。 先生が留守でも、必ずカヲルちゃんがいる。 カヲルちゃんは旅行者として島に来ているので仕事はせずに、毎日先生の家で自主練習と炊き出しをしていた。 (最初に訪れた3ヶ月間、かつての私もそうだった。) 由美ちゃんの仕事も早番で、いつも夕方から3人が集まり一緒に唄う。 マーコネエがやってくると、今度は私と由美ちゃんに優秀賞の唄を教えてくれる。 大森くんがやってくると、マーコネエに最優秀賞の唄を指導。聴いているだけだと眠くなるので、一緒に唄う。 …とまあ、こんな感じで、21時頃までずっとず?っと唄っている。 この間亘先生は何をしているのかと言いいますと。 帰宅してまず風呂に入り、ビールを数本開けつつ、「ほら、いま下がったでしょ!違うでしょ?!」と、横から指導。 時にはキッチンに入り、怪しげなものを作ってきて、「食べなさい。」とすすめてみたり、「ビールはだめ」と止めたり。 猫のミーコとべたべたしたと思ったら、ごろんと横になって寝そべったり。 猫のような亘先生だが、1週間前からは、前年と同じように仕事を休んで、朝から晩までつきっきりで個人指導をしてくれた。 コンクールのことを考えると、体中が緊張するものだ。あと1週間…その頃になると、みんな少しおかしくなってくる。 マーコネエは急に泣き出したり、由美ちゃんは唄にへんなコブシが入ったり、私は小さな怪我をしてみたり。 (包丁で指を切ったのと、足の爪の上に重いものを落として青くなった。) いかにリラックスして、いつもの力を発揮できるか。唄を覚えることは当たり前で、あとは精神力。 コンクールのステップ、新人賞→優秀賞→最優秀賞、と上がっていくにつれ、精神力がとくに重要となる。 亘先生も、そのあたりのことを「研究」しているらしい。 例の「水に顔をつけて息を長く止める」に加え、こんどは「ノニがいいらしいさ」と言って、自家製のノニ茶を毎回飲まされた。 八重山の島々には、ノニ=ヤエヤマアオキが自生している。 「ノニがいい」と知った亘先生に連れられ、黒島まで行って、ヤエヤマアオキを伐採して持ち帰ったりもした。 その後すぐにヤエヤマアオキは禁止木となったので、たぶん私たちのせいではないかと思っている。 亘先生が作るお茶は、ヤエヤマアオキの木片を乾燥させ煮出したもので、ものすごくまずい! ノニ酒なるものも作っていて、そちらはヤエヤマアオキの実を泡盛で漬けた品。 ミネさんはノニ茶ではなく、ノニ酒派で、実までかじっていた…。まずいのに、熱心によく食べるなぁ、と思っていたら、 「てっぺんに毛が生えてきた!!」と頭をなでなで。亘先生の話では、育毛効果もあるそうだ。 コンクールに照準を当ててないミネさんがうらやましくもあるが、とくに緊張しやすい私とマーコネエは、がまんしてノニ茶を飲んだ。 確かにリラックス効果があって、体の余計な力が抜けていく。むしろ抜けすぎてしまう。 素直な性格のマーコネエには、“効きすぎ”だったようで、練習中、自分が唄っている最中にカクンと眠りに入ってしまい、 しばらく爆睡してしまった。ここまでリラックスしたら本番だめじゃない?ということになって、ノニ茶作戦は廃止となった。 コンクール1週間前、この時期に合わせて、八重山新聞の紙面に「天使の歌声♪」というサプリメントの広告が大きく載った。 「このサプリメントを飲むと、緊張がとけ、高音は無理なく出て、低音は安定し、息も長く続いて……」と謳っている。 さらに、使用者の声の欄には、琉装した女性の写真が載っていて、 「このサプリメントに助けられ、琉球民謡コンクールに合格しました。………」という喜びの声。 コンクール前の心理につけ込んで、なんという宣伝だ!私もほしい! 「アヤ?新聞見た??買おうか迷ってるさ?。こんなのに頼っちゃいけないのはわかってるけど。」 マーコネエは真剣に悩んでいた。割り勘で買おうか、というところまで話しは進んだけれど、結局、買わずに自力で挑んだ。 ちなみに、ミネさんは、こっそり本番前に酒を飲んだらしい。 「あがや!だから合格できんかったのよ?!」と、マーコネエに叱られておりました。 少しだけ緊張感があったほうがいいのかも。
18.こわい体験シリーズその2 「誤解」
Mさんを空港まで迎えに行った。 直行便で到着すると聞いていたが、私の記憶の中にあるMさんは見当たらない。 見知らぬ男性が、私に向けて手を振っている、満面の笑み。あなたがMさん? うそ?っ!! こんな人だったっけ?! 「お久しぶりですね」 高めのトーンで、なおかつ鼻にかかるような声。 チェックのシャツ、ぴったりジーンズ(ウォッシャブルタイプ)、ウエストポーチ、大きなリュック。 床屋で髪を切ってきたばかりと思われる、毛先のライン。 どこからどう見ても、完璧な“オタク”だ。 正直言って、ちょっと気持ち悪い。 石垣島へ引越しをする直前に、友人の結婚式があった。 その二次会で、初めてMさんという男性に出会った。Mさんは新郎の会社の先輩でエンジニア。 お祝いの唄・三線を演奏した後に、「とても良かったです」とMさんが声をかけてくれたのだった。 「インドネシアで聴いたジャワの古い唄によく似ていました」と言われ、尊敬の眼差しに変わった。 また音楽の話をしましょう。ジャワの音源もあるので送りましょうか。…そんな会話を交わした。 お互いの連絡先を交換して終わった。 その後、メールのやりとりが3ヶ月ほど続いたころ、夏休みは石垣島へ行きます!という連絡がきた。 あの日はお酒も入っていい気分だったんだ… あ?失敗した!! 仕方ない。Mさんはもう石垣島に来てしまっている。友達の旦那様の先輩だ、邪険にもできない。 Mさんを単なる観光客だと思えばいい。表向きは親切にできるだろう。よし、私はいまからタクシー運転手だ。 かといって後部座席に座らせるわけにもいかず、あきらめて助手席に乗ってもらう。 体をこちらに向けて、私のことをすごく見ている。「シートベルトを…」「あ、そうだったね、あはは」 楽しげなMさんだが、シートベルトをさっと掛けることもできずモタモタしている。 あいからず外の景色も見ないで、私のことを見ているようだ。いやな空気だ…困ったぞ。 なんとかして石垣島の外へ出て行ってもらおうと、西表島だの竹富島だの、必死で石垣島以外の島の魅力を話しまくった。 Mさんは私の話しを聞いているのかいないのか、「髪が乱れてる」と目を細めて、私の頬のあたりから髪の毛を撫でつけた! ブルブル背中に悪寒が走った。 8月は土産販売の仕事も忙しいし、コンクールの稽古にも熱が入ってくる頃だ。 それらを理由に、二人でどこかへ行きたい、という誘いを断り続けた。 しかし、どうしても、“友達の旦那様の先輩”ということが引っかかり、一度は食事くらい行かないとまずいのかなぁ、と思った。 二人きりではさらに誤解を招くということで、亘先生、マーコネエ、カヲルちゃん、という強力なサポーターと共に、 5人で“民謡スナック”へ行くことになった。 ここならあまり会話がなくてもいいし、それなりに楽しんでもらえるだろう、というマーコネエの発案だった。 お店では、Mさんの強い視線を感じたが、亘先生とマーコネエが話しをしてくれたので(島の良さなど)助かった。 亘先生の家に戻って反省会。 「アヤちゃんが誤解させるようなメールをしたからいけない」と亘先生に叱られる。 「好かれないより好かれたほうがいいさ。自信にすればいいさね!」とマーコネエに励まされる。 「あのテのタイプはこわい。ストーカーみたい。気をつけたほうがいいよ。」とカヲルちゃん。 そして、カヲルちゃんの心配は的中した。 MさんはそれまでメールとCDを送ってはきたが、電話はかけてこなかった。 石垣島へやって来てからは、毎日、というか数時間ごとに電話をかけてきていた。 民謡スナックの夜は、留守電メッセージに「ぼくは二人で会いたかったのに」と入っていた。 翌朝は「二人で会いたいので必ず電話ください」そのまま放置していると 「なんで会えないんですか!なんで電話くれないんですか!ぜったいに会いに行きますから!」と怒りの声に変わって行き、 「ガリガリガリガリ ギーギーギー」というような、不快な金属音を留守電に入れてきた。 嫌がらせが続いたらどうしよう。CDを送ってもらうのに住所を教えている。アパートにやってきたらどうしよう! 自分のアパートに帰るのがこわくて、アルバイト先の友達、くまちゃんの家に泊めてもらうことになった。 Mさんにとって最後の島の夜、なにか起こすかもしれない。 この夜さえ乗り切れば、Mさんは東京に帰って行く。 金属音を入れてきた電話の後は、まったく音沙汰もなく、メールもない。その静けさが不安だった。 何事もなく、午前3時までくまちゃんとゆんたく。もう大丈夫みたいだね、眠くなったね、おやすみ…と横になって間もなくのこと。 電話が鳴った。午前3時30分。 「どこにいるんですか」 「アパートにいませんよね」 アパートをみつけて、待っていたのかもしれない。 深呼吸して、自分の気持ちを丁寧に話した。 Mさんを誤解させたことを詫びて、でも「迷惑」ということもハッキリ伝えると… 興奮した声から弱々しい声になってきて「前にも、同じようなことがありました…インドネシアまで行ったのに…」 最後には、すみませんでしたと言い残し、電話が切れた。 横でドキドキして聞いていたという、くまちゃん。一緒にこわい思いをさせてしまってごめん。 Mさんからは、その後、1本だけメールがきたが、それっきり。 Mさんの苦い思い出が絡んでいた、ジャワの音源も捨てました。 教訓。酒の席で男を判断するな。メールでは相手の人柄まではわからない。いい人ぶるな。
17.こわい体験シリーズその1 「ヨーン」
2度目のコンクール前に、合同練習会が行われた。 亘先生や私たち生徒のほとんどは、登野城、大川、新川といった街中で暮らしていたが、 その日の練習は、川平公民館まで行くことになった。 小雨が降るなか、曲がりくねった道を通りすぎ、山を越えて、川平へと向かった。 川平公民館の舞台上では、本番と同じような緊張感でもって、ひとりづつ唄い、 先生や“大先生”にアドバイスをいただいた。 長時間の合同練習が終わると、すっかり外は暗くなっていて、雨も強くなっている。 一刻も早く帰ろうと、みんな一斉に公民館から車を出し、だんご状態だ。 雷もゴロゴロいっているし、もう少し待てばいいのに…。 だいぶ昔だけれど、大雨の中、友人たちとマグロを食べに三崎港まで行った帰りに、 ちょっとした追突事故をおこした過去がある。 前に乗っていた、ツッパリ風のお兄さんたちに「なにやってんだよォ!」とすごまれた時は 心臓が止まりそうだったが、超かわいい後輩の女子が、一生懸命謝ってくれたら、 「ま、いいけどよ。気をつけな!」で終わったのだった。 でも自分の車がかわいそうなことになっていたので、以来雨の日の運転は苦手なのである。 川平からの帰り道は、街灯もない真っ暗な山道だ。 私の車の助手席には、東京から長期滞在で来ているカヲルちゃんを乗せている。 「こわいから安全運転で行くね」と、のろのろマイペースで走っていたら、 いつの間にか、亘先生やマーコネエたちの車と距離ができてしまった。 再び曲がりくねった道に入ってきた。ゆっくり、ゆっくり、安全運転。 前方に大きな水たまり発見。この道以外、街中へ抜ける道はない。先生たちも通ったのだ。 …と、私もゆっくりと、水たまり地帯を進んで行くと… ズブズブズブ。。。。。 タイヤの上まで、しっかりと沈み、そのまま動かなくなってしまった。 考えてみたら、私の車は軽自動車の“ミラパルコ”という、ちっちゃい車だ。(都会では見かけない車です。) よりによって、こんな山道で、最悪の事態だ。 後ろから走ってきた親切なおじさんが、水たまりの手前で車を止め、 水没したミラパルコをどうにか移動させるのに、手を貸してくれた。 おじさんとカヲルちゃんが大雨の中、ずぶ濡れになりながらミラパルコを押してくれた。 「ハンドル握ってて!」とおじさんに言われた私は、ほんとにただ握っていて、 「あー!!右にハンドルきってきってー!!」と怒鳴られ、ようやく自分の役目に気づいた状態だ。 ようやく水たまり地帯から脱出でき、再びエンジンをかけようと試みたが、「ブヒヒヒヒン」の音も出ない。 携帯電話の電波がかろうじて入ったのは不幸中の幸い。 救出の車を呼ぶことができたが、しばらくの間は、カヲルちゃんと二人きりで待つことになった。 あいかわらず激しい雨と雷が続いている。真っ暗な山中、狭い車の中、かなりこわい空間である。 決してミラーなどは見てはならぬ。目は開けているけど、どこも見ない、という感じで過ごした。 カヲルちゃんは、「おばけにいたずらされて、トイレから出られなかった」とか、こわいことを 落ち着いた口調で、ぽつぽつ話す人なので、恐怖度が増していた。 いまは、なにも言わないでください…。 「なにか唄おうか!!」 こわさを紛らわすために声をかけると、いきなりカヲルちゃんは唄い出した。 ♪オーブレーネリー あなーたの おうちはどこー♪ つられて私も ♪わたーしの おうーちは スイーツァランドー よー♪ お互いの顔も見ず、ひたすら前を向き(どこも見ない) 二人で♪ヤホホー♪は空しかったが、それでも繰り返しオーブレネリを唄ったのだった。 美千代姉さんの救出車が来てくれたときは、自然と笑みがこぼれた。 緊張がとけて、饒舌にもなった。 その頃は、雨もだいぶおさまってきていた。 ミラパルコを置き去りにして、みんなが集まっている亘先生の家へ。 いや?こわかった!こんな状況だった!と興奮して話すと、 「ああ、あそこはヨーンさね。」 亘先生はニヤリとして言った。 マーコネエまで「そうねー、ヨーンだから出たんじゃないのかねー、ハハハ!」 また酒の肴にされている。 「ヨーン」というのは地名。バス停留所「ヨーン」もある。 その意味は、闇のいちばん深いところ、ということらしい。 「やっぱりまたいたずらされた。」 ボソリ言うカヲルちゃんだった。 16.貝コレ
横浜に生まれ育ち→ハマっ子 高校3年から今の鎌倉腰越に移り住み→湘南ギャル 社会人になったのはバブル崩壊前→バブルOL そんな都会派?の私が、縁あって石垣島で暮らすことにまでなった。 何もない島にずっといたら、さすがに飽きちゃうでしょと、そんな声も聞かれたが、 やること、やりたいことが沢山ありすぎて、退屈に感じたことは一度もない。 一番はまったのは、貝。 サンゴでできた白い砂浜に、きれいな色、形をした貝たちがコロコロ落ちている。 貝ひろいにスイッチが入ったきっかけは、波照間島だ。 波浪注意報が出ているにも関わらず、「安栄観光フェリー」は出航した。 いつもなら約1時間で着く波照間島まで、1時間30分かかった。 激しかった! 小さな船が波に高く持ち上げられ、次の瞬間、バシーンと叩き付けられる。 沈み込んだ船の窓からは、山のように持ち上がる荒波の景色が見える。 その繰り返しだ。 「転覆しそう…。」 乗客たちは小さな悲鳴を上げ、私も血の気が引いてくるのを感じていた。 となりに座っている、見知らぬおばさんに「こわい、こわい」と手をギュっと握られた。 汚くてすみませんが、後半はみんなゲロゲロ……。 波照間の港に着いても、ふらふらして、真っ直ぐ歩けない。 余談だが、妹しのが波照間へ行ったときも、海は荒れていたそうだ。 しのも「安栄観光フェリー」だったらしい。 ドンブラドンブラと揺れる船内で、前に座っていたオジイが、 何を考えたか急に札束を数え出した。 案の定… 見事に札束は飛び散った。 海の彼方に消えてゆく1万円たち…。 船内にばらまかれた残ったお金を、しのと友達は懸命に拾った。 オジイは喜んで1万円、はくれなかったが、「泡波」1本をどんと差し出したらしい。 波照間島で泊まった民宿には、ひろった貝で作られた小さな作品があった。 極小サイズの貝や、割れて残った貝の一部分を使って、こんな面白いことができるんだなと思った。 悪天候が続いた後の浜辺には、珍しい貝も打ち上げられていた。 “ペムチ浜”には、白色だけでなく、青色のサンゴも落ちていた。 私の貝収集は、この日から始まった。 石垣島では、“兼城”がお気に入りの浜。 ここに行くと、とりつかれたように、“月の砂”を拾っていた。 星砂も“月の砂”も、サンゴや貝のかけらではなく、有孔虫というプランクトンの一種の死骸である。 (以上解説はカニ博士) “月の砂”は丸くて薄い形をしていて、妙にかわいらしい。 白やベージュ、グレーなど色が微妙に違い、小さいものでは直径2ミリくらいのもの、 大きいものでは直径1センチくらいのものまで、瓶いっぱいになるまで集めよう!と決めて、 目を皿のようにして探した。 兼城へ行った後には、ペンキが飛んだポチポチの丸い跡さえ、ぜんぶ“月の砂”に見えて、 人差し指でおさえこんでしまう、いわゆる職業病のような症状も出た。 つやつやピカピカとした、さっきまで生きていたような美しい貝は、いつも自分のものにできない。 というのも、すでに先客がいるからだ。 「わ!きれいな貝!」 と喜んで拾いあげると、つめをシュっと隠すヤドカリの姿。 ヤドカリがいなければなぁ…と思いつつ、あきらめ浜に戻すと、しばらくするとトコトコトコと歩き出す。 ずいぶんといい物件をみつけたもんだ。 兼城で白い犬の散歩をしているご夫婦と、通っているうちに、話しをするようになった。 その奥さんの話しが面白かった。 きれいな貝を拾って、玄関先に飾っておくと、すぐに消えてしまうそうだ。 代わりに、うす汚れた貝が残されているので、ヤドカリがきれいな貝に引越しをしているのだろう、と。
15.わたしの部屋
すべり出し順調。 偶然仕事が決まり、中古車を購入し、素敵なアパートも見つかった。 初めての一人暮らしだ。 「部屋をこんなにしたい!」と想像することも楽しかった。 玄関にはグリーンを置いて、マットやカーテンはアジアっぽいものがいい。 木製のテーブルも置きたいし、低めのベッドがあるといいねぇ。 でもまずは、生活に必要なものから揃えていかねば。 コンロはカニ博士のお古を頂戴した。 一つコンロは、調理に同時進行ができず不便だけれど、節約のためあきらめた。 炊飯器は、アルバイト先で友達になった、くまちゃんが譲ってくれた。 ごはんが炊ければいい。 洗濯機は大森くんのおさがり。 色がチャコールグレーというのは、イメージと違ってイマイチだけれど、ぜいたくは言えない。 「無印良品」のナチュラルカラーな電化製品なんて、揃えられないしね。 節約、節約。 冷蔵庫は、冷凍と冷蔵が別々の、2ドアのものがよかった。 ホテルに付いているような、1ドアのものは安く売っていたが、冷凍スペースが小さすぎる。 なんといっても島では冷凍! 冷蔵庫でタマゴが腐れるのだから、基本は冷凍! 冷蔵庫だけは新品を購入しようと思ったときだ。 大家さん(おじさんの方)が、 「工場のを買い換えることにしたから、譲ってあげるよ。」 と、すすめてくれた。 仕事に行く前だったので、帰ってきたら見せてほしい、とお願いした。 ところが帰宅すると、大家さんの息子ともう一人の従業員が、えっさほっさといきなり運んで来てしまった。 「すぐに必要でしょ。」 というのは、確かにそうなんだけど…。 息子たちは「じゃあね?」と去って行き、私と冷蔵庫ふたりが部屋に残された。 冷蔵庫の足部分は壊れて、木で支えてある。接木をしている冷蔵庫って見たことなかった。 ドアに穴が開いていたのか、ガムテープがべたべたベッタリ貼ってある。 あっアリンコがいっぱい………。 見た目が悪すぎて、思わずため息がもれた。 見た目だけではなく、中身もひどかった。 冷凍スペースはガチガチの氷の塊で埋め尽くされ、アイスキャンデー1コだって入らない。 冷蔵部分は水びたし。牛乳やらドリンクを入れる枠が割れている。 タマゴのエリアは変色していた…。(タマゴが腐れた過去があるんだ、きっと。) この冷蔵庫と一緒に暮らす自信はなく、結局、ご返却することに。 入居して間もないし、大家さんたちとわだかまりができたらどうしよう、と心配だったが、 まったくケロケロっとしている。 ほっと肩をなで下ろし、すぐさまBEST電機へ直行。 ほかで節約できた分、冷蔵庫は新品を購入することができた。 新品の冷蔵庫が部屋に落ち着くと、一人暮らしがそれらしくなった。 アルバイト遅番の日はこんな感じ。 朝起きたら、一つコンロで、一つの鍋でお湯を沸かし、紅茶を入れる。 鍋を外し、一つのフライパンで目玉焼きをつくり、皿に盛る。(盛るってほどの料理じゃないが) マイカーで全日空ホテルへ。14時から21時まで店番。シーサーなどの土産品やリゾートドレス、 アクセサリー、亀の剥製、鮫の剥製、カエルバッグ、…などを販売。 帰宅して夕食をきちんと作る日もあり。 アルバイト早番の日はちょっと大変。 7時から14時まで店番をしなければならないので、6時前に起きていないと間に合わない。 朝食は買っておいたパンをかじっておしまい。 お昼の休憩はないので、遅番スタッフが来るまで食事は我慢。 我慢できないときは、お客さんが引いたとき、こっそりチョコレート(キスチョコ)を食べる。 仕事が終わったら、亘先生の家へ行ってお稽古。 実は…。 となりの部屋に暮らしている教頭先生は“酒乱”で、酒の量でうるさ度に日々違いがあるものの、 毎日酔ってさわいで帰ってくる、おとこやもめ、だった。 ちなみに、酒量少の場合は鼻歌。めったにない。 酒量中の場合は、男がどうしたこうした言う演歌を絶唱しながら帰ってきて、部屋でもしばらく歌っている。 このパターンが多かった。でも何の歌なのかわからない。オリジナル? 最悪の酒量多の場合、 「バッカヤロー!!んだコノヤロー!!」と怒鳴って、戸や壁をがんがん蹴ったり、何か投げつけるような音もして ものすごくうるさい。学校でいやなことがあったのか、飲み屋のお姉さんにフラれたのか…。 翌日早番のときは、つらかったです。
14.アパート探し
アルバイト先が決まった。 通勤に必要な中古車も購入した。 なんだか順序が違う気が…。 まだアパートは決まっていなかった。 民謡教室仲間のひろちゃんが、アパート探しに毎日付き合ってくれた。 彼女は生粋の石垣っ子で、石垣島事情を熟知している。 一人で不動産屋を回るのは少し不安もある。 「アヤさーん、住んではいけない場所もあるから、私も見に行こうねぇ」 との申し出は心強かった。 …しかし、住んではいけない場所、という言葉だけは引っかかる。 不動産屋を訪ねると、いくつかの“おすすめ物件”を紹介してくれるので、 家賃などの条件が合えば、すぐにひろちゃんの車で移動して、見学させてもらった。 先生の家の近くで、家賃2万5千円!なんていう部屋もあった。 ひろちゃんの眼が光る。 洗濯物やバイクなどの様子から、「となりに若い男が住んでるみたいね」とのことで×。 あ、そう。 海が見える2Kの部屋もなかなか良かった。広々として風通しも良さそうだ。 「アヤさーん、ここはダメよ。台風が来たら大変なことになるよー。」 確かに本土の台風とパワーが違う。晴れている日の印象だけで決めてしまうのは失敗のもとである。 ちなみに、この部屋の場合はもう一つ、ひろちゃんのダメ出しがあった。 「ゴキブリのふんが多いね。巣があるのかも。」 ぞぞぞーーあの巨大ゴキブリがワサワサいるなんて、想像もしたくない…。 畑や山の景色が見える、のどかな場所にも行ってみた。牛の鳴き声が聞こえたり、 石垣島ならではの生活が実現しそう。ここならいいんではないのー?! ひろちゃんの眼がまた光る。 「アヤさーん、ここは神様の通り道だから、ぜったいに住んではだめよー。」 神様の通り道をふさぐように建っているアパートなので、「怖い」と言う。 そういえば、全日空ホテルバイトで一緒だった大阪の女の子が言っていた。 「気に入って住んでいるけど、島人の友達が、ここは神様の通り道じゃないのか、と言って怖がる。」 彼女の部屋には、祭壇のようなものまで付いていて、ふつうに棚として利用しているらしい。 その祭壇には誰かが座っている…。島人には見えている。 島人が怖がることを、よそ者はやってはいけない!と思うのだが。 それに…、自分がそんな場所に住んだらどんな目にあうのか、小心者の私は、そっちが怖い。 再び、別の物件を見学しに行ってみた。 同じアパートにいくつも空き部屋があり、その中の一つは角部屋にもかかわらず、他の部屋より 家賃が1万円も安い。 「この部屋だけサービスでクーラーも付けてます。おすすめですよ!」 玄関を入るとバーンと御札が目に飛び込んできた。クーラー付きの寝室にも大きな御札があった。 ひろちゃんの青ざめた顔を見て、背筋が凍った。出る、んだ…。 ひろちゃんと一緒でなくても、この部屋の怪しさは相当なものだったので、住むことはなかったと思う。 アパートを決めるまで、2週間かかった。 ようやく、ようやくひろちゃんもOKという部屋に出会った。 一軒家のようなきちんとした玄関で、1Kなのに廊下まである。収納スペースもばっちり。 一番のお気に入りは、やたらと大きいシャワールーム。布団も敷けるほどの広さだ。 むだとも思えるような、ゆとりある1Kが、私の城となる。 ひろちゃんは凄腕で、大家さんに直接交渉して、家賃を3千円もまけさせた。 もともと付いてはいない駐車場も、アパート向かいの工場に作ってくれることになった。 大家さんは工場の社長さんでもあった。 ひろちゃんはさらに住人情報も入手。 私の部屋は2階で、お隣さんは中学校の教頭先生。 1階は大家さんが商店を営んでいる。 上の3階は大家さんの息子家族が暮らしている。 怪しい人もおらず、こぢんまりとした家族的なアパートで、安心して暮らせそうだ。 アパートがようやく決まったが、入居したのは、さらに2週間後になった。 「アヤさーん、すぐに住んではだめよ」 入居するまでにも島のルールがあった。 ひろちゃんに言われた通りにして、まずは味噌と粗塩を買い、玄関にお供えを。 翌日からは、プロ顔負けの、おそうじ! おそうじグッズを持ち込み、タイルの溝から、障子のさん、細かいところの隅々まで、 天井、天袋、届かないところは大家さんから脚立を借りて、しゅっしゅっしゅ。ゴシゴシゴシ。 もちろん1日では終わらない徹底ぶり。磨いていない場所はひとつもない、というところまでやった。 ひろちゃんのおかげで、快適な石垣ライフが始まった。ありがとう。 かなり時間はかかったけどね。
13.仕事がみつかった
石垣島へ引っ越す!と、自分の中で決定したものの、仕事がなければ始まらない。 鎌倉で求職活動するのはかなり無理があるけれど、万が一、ということもある。 ほぼ1日遅れで自宅に届く「八重山毎日新聞」の求人欄を毎日チェックしていた。 しかし…ほとんどが“ラウンジレディー”など夜のオシゴト。 加えて、アパート探しも難航。 鎌倉にいては、何もできないことを実感し、さっさと石垣島へ行くことにした。 私と入れ違いで実家に帰郷する由美ちゃんのアパートを、しばらくの間使わせてもらうことになった。 まずは自分のアパートをみつけて、落ち着こう。仕事を探すのはそれからだ。 夕方からの稽古の前に、小腹が空いて、小さなそば屋に入った。 中途半端な時間だったので、私の他にお客はなく、そば屋のおかみさんと世間話が始まった。 私が観光客ではないとわかると、 「へぇー観光じゃないのー。民謡なんか好きなのー。  おばさんなんてずーっと島にいるけど、ぜんぜん唄えないよー。あなたえらいねー。」 大きな瞳をクリクリさせて、興味深そうにしている。 仕事を探している、と言うと、「あー仕事はないよねー。」と、今度は残念そうな表情で肩を落とした。 表情豊かな素敵なおかみさん。 八重山そばも美味しかったし、人情派のおかみさんが好きになった。 「がんばってねー。応援するからねー。またおいでねー。」 おかみさんに見送られ、亘先生の家へ向かった。 「こんにちわー」 「はい、いらっしゃい」今日は先生起きている。すぐに稽古をつけてくれそうだ。 いそいそと机の上を片付けていると、先生の家の電話が鳴った。 「はい、はい? え? はぁ?」 どういうわけか、亘先生が「アヤちゃんみたいだよ」と言って、受話器を私に差し出した。 誰からの電話なのかも、よくわからないとのこと。 疑わしく電話口に出ると、なんとさっきのおかみさん!! 「そば屋のおばさんよー。仕事の話があるから、今すぐおいでー。待ってるからねー。」 きょとんとした顔の亘先生を残して、再びそば屋へ、小走りで向かった。 不思議だった。 亘先生の電話番号を教えてもいないし、私は名乗ってもいなかった。 言ったのは、「登野城の民謡教室に通っている」とだけ。 そばを食べて店を出て、先生の家に着いて、片付けをして… そのわずかな時間に、仕事があるという情報がおかみさんに届いて、 おかみさんが電話番号を調べて、電話をかけてきてくれて??? そば屋に入ると開口一番、 「あなたラッキーガールよー。」 と、目をまん丸くして言った。私が店を出た後すぐに、知り合いの女性が食べにきて、 偶然働き手を探していることがわかったらしい。 おかみさんが仕事の話しをふってくれたんだろう。 そして、電話帳に載っている登野城の民謡教室に片っ端から電話をするつもりが、 最初に亘先生のところへかかったというわけだ。 信じられないくらい、できすぎている! 程なくして、おかみさんの知り合いの女性も店に戻ってきた。 「高田さんもよかったさー。」 「ありがとうねー。」 二人でわいわい盛り上がっている。 高田さんという女性に「じゃあ、よろしくね」と言われ、「はい」という返事を出した。 ところで何の仕事なんでしょうか? 少し落ち着いてから仕事の内容や条件の話しになった。 高田さんは土産屋の店長さん。 私の仕事は、全日空ホテル内の売り場スタッフ。 自給は700円。ガソリン代が月5000円。 これは、かなりの好条件なのだ! 平均自給は600円。しかも昼間の仕事、きれいな職場、おかみさんが繰り返し言うわけだ。 「いやーあなた、ほんとにラッキーガールよねー」 うそみたいにあっという間に決まった仕事と対照的に、気楽に構えていたアパート探しで、 ちょいと時間がかかってしまう。 その話は次回Mにて。
13.石垣島へお引越し!…その前に。
秋の発表会を無事に終え、鎌倉の実家に帰った。 「来年の3月に石垣島へ引っ越すことにしたから」 私の言葉に、両親は全く驚かなかった。 むしろ、そうしてほしい感じであった。 趣味ではじめた唄と三線にすっかりはまり、 唄の生まれた島で生活してみたい、という夢も叶った。 そして亘先生から、考えてもみなかったことをアドバイスされた。 「八重山古典民謡の教師免許をとって、教室を開きなさい。」 今まで、ただ好きでやってきたけれど、明確な目標を定めてやっていく、 そろそろ大人として、ちゃんとした方がいいかもねー、 あいかわらず浮ついた決心ながら、自分で納得して、教師になろうと決めた。 その年のラストに、初めてソロライブをやらせてもらうことになった。 稲村ガ崎にある、おしゃれなレストラン&バーである。 「なんて素晴らしい1年なんだろうー!!」 石垣島で亘先生と出会い、コンクールで合格し、発表会で独唱し、 教師になるという将来も見えてきて、ラストにライブとは! 興奮と気負いで、ライブの数日前に熱を出した。 発熱で練習もできず、不安なライブ当日、頼りになったのは妹しの。 「アヤちゃん、もっと気楽に構えたほうがいいよ」とか、 「もっとマスカラつけなよ」と言ってメイクもしてくれたりして。 その後のライブでも、いつも影で支えてくれている貴重な存在なのだ。 12月29日22時、多少“もうろう”とした感じで始まった初ライブ。 演目は、1部/鷲ぬ鳥節、鶴亀節、まんがにすざ節、まるまぶんさん節、ちょうが節、         波照間ぬ島節、与那国ぬまやぐわー節、まやゆんた、新安里屋ゆんた      2部/鳩間節、あがろーざ節、うやき節、桃里節、川良山節、久高節、         繁昌節、つぃんだら節、くいひへー節、赤馬節、山入らば節 以上20曲! 知らない民謡ばかりこんなに聴かされたお客さまに、今さらながら「お疲れさまでした」 と言いたい…。 記念すべき初ソロライブのこの日、ひとつの“種”がまかれた。 演奏終了後、マスターがかけてくれたCDの唄声に、心が奪われた。 それまでの人生で、好きになった音楽はたくさんあるけれど、 胸がドキドキというかドックドックと心臓が高鳴るのは、初めてだった。 今まで聴いたことがない不思議な唄い方と、哀感のあるメロディー、でもなぜか懐かしい。 「これいいでしょう?J-WAVEで流れてきて、これはすごいと思ってね。  局に問い合わせるまでして買ったCDは初めてなんですよ。」 マスターからCDのジャケットを受け取った。 『海美』  島唄 朝崎郁恵 ピアノ・キーボード 高橋全 タイトルをメモにとり、翌日すぐさまレコード屋に注文。 新しい年が明けてから、CD『海美』を購入することができた。 何回聴いても飽きず、“夢中”という言葉がぴったり。 朝崎さんというおばあさんは、いったいぜんたいどんな喉をしているのか?発声の仕方が想像できない。 奄美ってどんな島なんだろう? 奄美シマ唄ってなんだかすごそうだ! 後に、自分が朝崎先生に弟子入りするとは… このとき思うはずもなかった。 3月に石垣島へ引っ越しする準備は、着々と進んでいた。 しかし、まかれた種は、不思議なめぐりあわせで、芽を出して行くのである。
11.緊張!
寝たのかどうかもよくわからない。 夜明け前に目が覚めて、まずは外に出て深呼吸。 明るくなりかけた空に、微笑しているような形の、ほっそりとした月が残っている。 どこからか「鷲ぬ鳥節」を朗々と唄う、男性の声が聴こえてきたときには、 背筋がぞくぞくっとした。 「鷲ぬ鳥節」は、正月の朝に東の空から美しい羽をした鷲の鳥が飛んできた、という唄で、 おめでたい席で必ず唄われるものだ。なんだか幸先いいぞ! キミさんは「ご先祖様にもお願いしておいたからねぇ」と、仕事休みの日なのに早起きしてくれ、 着付けを予約した美容室まで車で送ってくれた。 「今朝おばさんが最初に出会ったのが女の人だから、きっと大丈夫さ。」 と言って励ましてくれた。初めて聞く“縁起かつぎ”の話だったが、何かあたたかいものが感じられた。 美容室の予約もトップバッターの私。 本番直前に“儀式”を行うため、ヘア&メイクはお断りして、着付けだけお願いした。 何十年もやってきた仕事とはいえ、プロの仕事はすごいと思った。 唄うための着付け、をしてくれたからである。 唄うときは、腹筋を使うし、横隔膜をふくらましたりもするし、おなかのあたりをベコベコやっている。 その動きを邪魔することなく、むしろ背筋をぐぐっと支えてくれて、大変唄いやすかったのだ。 着付けを終えて、亘先生の家へ行くと、マーコネエも待機していた。 優秀賞部門は二日目だったので、色々な雑用をやってくれていた。 亘先生たちが見守る中で、何回か唄い、「今日は大丈夫そうだね」と励まされ、 マーコネエの運転でコンクール会場へ向かった。 あっという間に出番がやってきた。 出番直前の“儀式”、それは、水の中に顔を浸ける!こと。 マーコネエに連れられ、トイレの洗面に水を張り、前髪を持ち上げ、ガバッと! 30秒、40、50、不思議なことに、体の力が抜けてくる。 できるだけ長い時間、水の中で息を止めると、緊張がとけるらしい。 舞台の袖までマーコネエは付いてきてくれ、私の肩をぽんぽんとたたいて送り出してくれた。 「1番。」 受験番号が呼び出された。 舞台の端で軽く会釈をして、中央の大きな座布団まで歩いていく。 正座をして、三線とつめを置き、あらためておじぎをする。 一呼吸おいて、演奏を始めた。 会場内は真っ暗で、最前列にいる10人の、審査員の手元だけが明るく見えている。 緊張するので、一番奥の方に視線をやって演奏していた。 暗い景色が、夜の海にも見えてきて、だんだんと緊張がなくなってきた。 本調子の「鳩間節」を唄い、こんどはニ揚に調弦をし直して、「安里屋節」を唄った。 めずらしく落ち着いて、さいごまで唄うことができた。 終わってしまえばこっちのもの。あとは、のびのびと、人の唄を聴いていられた。 やはり1番でよかった。 翌日すべての部門の審査が終わると、いよいよ合格発表だ。 夜になって、ホールのエントランスに、合格者の受験番号が貼り出された。 ありました、1番! そして、秋の発表会で、「夜雨節」を独唱する機会を与えてもらった。 島のみなさんに感謝。石垣島に足を向けて寝られません。私の枕は南向き。
10.抽選会
コンクールの1週間前に抽選会が行われた。 抽選会場は新聞社の会議室だ。 亘先生は「前に座ったほうがカメラに写りやすいよ」と、翌日の紙面に載る気まんまん。 私と由美ちゃんも、口紅くらい付けてくれば良かったと言いながら、前の席に移動した。 課題曲の抽選が始まった。 机の上に、二つの箱が用意されている。 本調子、二揚、それぞれの箱に、1、2、3、と数字が書かれたピンポン玉が入った。 「クジを引く方、どなたかいませんか?」 新聞社のおじさんが声をかけると、亘先生は私たちの背中を押したが、 万が一“あの曲”を引いてしまったら大変だ。 本調子の「月夜浜節」は、過去に一度も選曲されたことがないという。 新人賞部門の課題曲では、一番の難曲で、次のステップである優秀賞レベルに匹敵する。 どうやら毎年、箱の中をちらっと見て、「月夜浜節」の番号を避けて引いているようだ。 高校生らしき男子が立ち上がった。 新聞社のおじさんが「中を見たらだめですよ」と言うのにも関わらず、ちらっ、どころか、 しっかりと箱の中をのぞき込んで、ピンポン玉を取り出した。 新人賞に限っては大目に見ているのだろう。 この年も「月夜浜節」は当たらなかった。 本調子は「鳩間節」に、二揚は「安里屋節」に決定した。 続いてマーコネエが挑戦する優秀賞部門の2曲が決まり、さらに、“大森くんストレート合格” に期待がかかる、最優秀賞部門の4曲が決まった。 最優秀賞だけは、ひとりで4曲も演奏しなければならない。おまけに1曲1曲が長いこと! 長時間の緊張に耐えられず、途中放棄する人や、頭の中が真っ白になってしまう人が毎年いるらしい。 審査員にボタンを押される前に、自分で退場する人は、まだ冷静な方だ。 ボタンを押された演奏者は悲惨だ…ワット数の高いライトに、カーッ、といきなり照らされてしまうのである。 ライトがついてしまったら、演奏をその場でやめて、退場だ。 中にはそのライトにも気づかないくらい緊張している人もいる。 本番はおそろしい。 課題曲の抽選が終わり、次は受験番号の抽選が始まった。 私の出番だ。 「どなたか1番を立候補する方はいませんか」新聞社のおじさんの声に、私がパッと手をあげると、 周りからエエ??という顔で見られた。 おじさんにも「本当に1番でいいんですか?」と念を押された。 トップバッターで受験するのを嫌がる人が多いので、数年前から立候補者を募るようになったそうだ。 私としては、人の唄を聴いて緊張する前に、さっさと唄って楽になりたかった。 以前、沖縄民謡教室で習っている頃、琉球民謡コンクールにも出たことがあるのだが、 1節でいいところを緊張して2節まで余分に唄って、客席をざわつかせたことがあった。 そんな話を亘先生にしていたので、「アヤちゃんは最初の方がいいよ」と言われていた。 というわけで、私は1番目に審査されることになった。 「アヤちゃんは当日10時には唄うことになるから、出番の4時間前には起きて、体を温めなさい。」 本番まで1週間。毎朝6時に起きて、入浴して、発声をして、10時に演奏する、という日課を与えられた。 亘先生は、この1週間、自分の仕事を休んで、生徒たちにつきっきりで指導に当たった。 台風10号もやってきたが、みんなも欠けずにやってきた。 うーん熱いぜ!
9.賞味期限、すぎてます!!
石垣島の夏は暑いというか熱い。 太陽光線が突き刺さって痛いくらいだ。 何よりも辛かったのは、夜になっても気温が下がらないこと。 亘先生は、クーラーの設定温度を18℃の冷え冷え状態にして、 毛布をかぶって寝るらしい。 息子部屋の私も、クーラーをタイマー設定して眠る毎日だったが、 タイマーが切れると、あっという間に室温がぐんぐん上がり、汗だくで目が覚める。 温度計を見れば33℃。 うー…あづいよー… ふらふらと冷蔵庫に直行して、1.5リットルのポカリをそのまま口につけ、がぶ飲み。 毎晩、ベッドと冷蔵庫の往復を、繰り返していた。 たくま兄さんが千葉に出張している時のことだった。 何か、におう。 強烈なニオイで目が覚めた。 今まで出会ったことのないニオイで、原因となるものが想像できなかった。 …というか、想像したくなかった。 でもきっと何かが腐っているんだ! 鼻にタオルを押し付けて眠ろうとしてけれど、暑くて臭くてどうにもならない。 もがきのたうちまわって、げっそりと朝を迎えた。 いつもは目覚めていない早朝に、キミさんと大仕事をすることになった。 「なんだか変なにおいするね」 原因解明にドキドキしたが、どうやら冷蔵庫からニオイが出ているようだ。 (小動物が転がっていなくてよかった) キミさんと一緒に冷蔵庫の扉をバッと開けた。 ビール、ジュース、缶コーヒー、私のポカリ、ほとんどが飲み物ばかりで怪しそうなものはない。 「きっと野菜カゴだね」 キミさんが、ズルリとカゴを引き出した。 「あがー!これ何だったかねー!はははは!」 出る出る出る。 元は野菜?黒くしぼんだ物体、ビニール袋の中で黒く液体化したもの… されらを次々と捨てていった。 “野菜カゴ”の中はからっぽになった。 その日は食欲がなくなって、稽古もいまいち、0時前には帰宅をした。 さっさと眠ってしまおうと、部屋にむかう。 げげっ!!!ニオイがパワーアップしている!!!どうしてー??!! 二階の冷蔵庫に一番近い息子部屋。 意を決して、冷蔵庫を再び開けてみることにした。やるしかなかった。 鼻と口をふさぐようにタオルを二枚巻き、口で細く息をして、扉を開けた。 野菜カゴはからっぽにしたのだから、それ以外のところに“何か”があるはずだ。 扉の内側のトレーに、ぽつんと一つだけ、黄ばんだ色をした丸い物体が… タマゴだ。 暑さからくるものだけではない、変な汗がじとーっと出てきた。 スーパーのビニール袋をひっくり返し、その中に手を入れて、そっと掴んで捨てるつもりだった。 そーっとそーっとやったのに、ビニールがタマゴに触れたとたん、ぐじゃ、と潰れ、 茶色い液体がどろーんと垂れてしまった。 小走りでティッシュペーパーをとりに行き、何枚も何枚も使って、その液体を拭った。 私の体からは、滝のような汗が流れ出た。 数日後。 こんどは亘先生の家で、すごいニオイがしていた。 どういうわけか、また私だけしかいない。 コンロの上にある、あの鍋が怪しい。えーいヤケクソ、開けてしまえ。 ふたを開けると、煮魚に白っぽいものがうごめいている? 背筋に悪寒が走った。 う、う、うじ虫!!! 結局、私の次にやって来たマーコネエが、「きっもちわるーい!」と言いながら、 中身を捨て、鍋はきれいに洗ってくれた。 きれいにはなったけれど、その鍋で作られた料理は、箸がすすまない。 石垣島の夏は、ほんとうに大変なのである。
8.特訓開始
再び稽古の日々が始まった。 コンクール当日まで一ヶ月あまり。 新しい民謡を次々に教えてもらった前回の民謡留学とは違い、 ひたすらコンクールの課題曲6曲を歌い込むことに徹底した。 初めてコンクールに挑戦するのは、同い年の由美ちゃんと、ミネさん、私の3人。 本調子の「鷲ぬ鳥節」「鳩間節」「月夜浜節」、 二揚げの「安里屋節」「千鳥節」「夜雨節」、 この6曲が“新人賞”部門の課題曲である。 八重山古典民謡コンクールは、新人賞、優秀賞、最優秀賞、の3部門があり、 10人の審査員がつけた得点で、合格か不合格が決められる。 さらに合格者の中で上位6人が、秋の発表会で課題曲を披露することになっている。 「ただ合格してもつまらないでしょ。どうせなら独唱目指してがんばりなさい。  そういう気持ちじゃないと上手くならないよ!」 と、亘先生の指導にも熱が入っていた。 「鷲ぬ鳥あと5回!」 「はいっ! せえの、あやーぱーーにーーばーー」 声を張り上げて唄い続ける。 唄っていると、汗がポタポタと落ちてきて、視界が悪くなる。 5回唄い終えると、首に巻いたタオルで汗をぬぐい、冷えたさんぴん茶をぐびぐび飲む。 それを課題曲6曲分。一人ずつやったり、3人一緒にやったり、数時間の猛特訓である。 …高校時代の夏合宿を思い出すような光景だった。 こう見えて高校生の頃、カヌー部に所属していて、夏は大学生と共に“強化合宿”という 恐ろしいトレーニングをしていた。ダンベル腹筋、山駆け登り、米俵ぐるぐる回し、など。 今の私では想像もできないが、真っ黒に日焼けして、おなかも割れていた。 そんな体育会系民謡教室で、へとへとになって帰る毎日。 コンクール前で宴会率は下がったが、それでも夜遅くまで亘先生の家にいることが多かった。 たくま兄さんとキミさんとは、どうしても時間がずれてしまう。 二人の朝は早いので、いってらっしゃい、の見送りもできない。 たくま兄さんたちの生活はちょっぴり変わっていて、 食事は「人が暮らせない」と言っていた、赤瓦の一軒家で、作って食べる。 二階には、寝るためだけに帰っているようだった。 私も同じようにして、鍵のかかっていない一軒家に入って、冷蔵庫を開ける。 「中のは何でも食べていいよ。」と言ってくれていて、いつも残りのおかずを頂戴していた。 一人分多く作ってくれているようだった。 「アヤネーネーいまから朝食なのー?ねぼすけだねー!」 と、みさきにキャハハと笑われた。 一軒家のドアを開ける音を聞いて、いつもやって来る。 たくま兄さんの姪で、小学4年生。 夏休みに入ったみさきは、朝6時前に「ラジオ体操行こう!」と起こしに来たり、 妹の明菜を連れて、私の部屋(たくま兄さんの部屋)で大暴れしたり、 ときには大迷惑だったが…。 「アヤネーネーぜんぜん遊びに行かないね。」 た、たしかに、その通り! 遊ぶゆとりがある方が、唄も生きてくる。 こどもは鋭いところをついてくるものだ。 以来、みさきにはよく遊んでもらった。 島のこどもたちは、どうも宵っ張りが多いようで、 稽古から帰宅するのを待ち構えていたみさきに、 「アヤネーネー人生ゲームしよう!」 と誘われるのは、やっぱり迷惑だった。
7.居候生活
雨季が終わり、さわやかな若夏の季節がやってきた。 うるずん(うりずん)の季節は、気温が25℃くらいで過ごしやすく、海もおだやか。 みんなで釣りに行ったり、“グランドゴルフ”をしたり、日中も気兼ねなく外で遊べる。 本格的な夏のシーズンが訪れる前の、4月5月がおすすめです。(旅行窓口的) さてその頃、私の滞在費も底をついてしまった。 島に残る方向で動いてみたのだが、なにせ仕事がなかった。 東京での短期アルバイトの話がきていたので、そちらに乗ることにした。 亘先生たちには「出稼ぎにいく」といって、お別れをした。 帰郷してからも、まるで家族のように亘先生は電話をしてきてくれた。 仕事はがんばってるの? 島にはいつ帰ってくるの? そして、8月末に行われるコンクールに向けて、ちゃんと稽古しているかどうか、 電話口で「唄ってごらん!」と言われたこともある。 7月末に再び石垣島へ行くことを決めると、亘先生は宿のことを心配した。 また同じペンションでいいや、と思っていたが、 「もったいないからやめなさい。こっちで空いている部屋があるから!」と言う。 …そんな部屋はなかったはずだ。 もしかして、ゴキブリがワサワサ出る、あの物置を部屋にしたとか? 「ハハ違うさ。たくまのとこで部屋が一つ空いてるって。」 先生の息子、タックルしてやぎを捕らえた、あのワイルドな息子。 「いや、先生、だいじょうぶですよ。」 断った翌日も、亘先生から電話がきた。 宿のお金がかかることが、どうしても心配で仕方ないと言う。 息子の家は二世帯住宅で、一階には娘の家族が暮らしていて、 二階に息子が暮らしている。それとは別に使っていない平屋の一軒家があるらしい。 「平屋を一人で使ったらいいさね。」 たいへんありがたい話である。 息子と隣部屋でないこともわかったし、思い切ってお願いすることにした。 3ヶ月ぶりの石垣島。 空港に着くなり、濃厚な熱風が体にまとわりついてきた。 そらの青、木々の緑、道に落とす影ですら、色の自己主張をしている。 出迎えてくれた亘先生は、黒光りしていた。 「先生、黒い!!」 笑っただけで、汗が噴き出してきた。 亘先生の家に直行すると、まずミーコが「にゃあ」と言って再会を喜んでくれた。 そのうち教室の生徒たちも集まってきて、「お帰りい!」と、故郷に帰ってきたかのように 歓迎してくれる。なつかしい顔は、それぞれ黒くなっていた。 息子のたくまもやって来た。 「お世話になります」と言うと、無口な息子は軽くうなずき、亘先生はみんなに 「たくまのところで生活するから」と言った。 誰も誤解しないとは思ったが、 「使っていない一軒家があるんですよね?」と、聞いてみたりした。 たくま兄さんの車で、いよいよ一軒家へと移動。 たまに会話を交わしながら、スコールがやんだ外の景色を眺めていた。 見覚えのある風景を走って行く。稽古を終えて、ペンションまで歩いて帰った道だ。 「ここ。」 たくま兄さんは、コンクリート打ちの大きな家の前で車を止めた。 車を降りると、大きな家の奥に、古めかしい平屋が見える。ここで暮らすのだ。 「はい、いらっしゃい!」 大きな家の二階から、おばさんが顔を出している。 たくま兄さんは私の荷物を持って、外階段を上って行く。 私が呆然としていると、 「そこでは暮らせないから、こっちに来て。」とおばさんが言う。 訳がわからないまま、二階へお邪魔すると、たくま兄さんがおばさんを指して 「おふくろ。」 とだけ言った。 「たくまから話し聞いてるよぉ。亘のとこで民謡やってるんだってねぇ。あの人はちゃんと教える?」 ヒエー!先生にそんな過去があったとは! それにしても、前の奥さんの家を強く勧めたり、“あの人”の生徒を迎え入れてくれたり、 島人はずいぶん大らかだなぁと、変なところで関心してしまった。 「下の家はクーラーがないさ。クーラーなかったらとてもじゃないけど暮らせないよ。  たくまの部屋を使ったらいいから。鍵もかかるし上等よ。」 人懐っこい笑顔のおばさんと仲良くなれる予感がして、居候させてもらうことにした。 でも、たくま兄さんはどこで寝るのだろう? 「おれはこっちでいいから。」 布団や洗濯物が山積みになった12畳くらいの部屋で、寝る準備を始めている。 なんだか申し訳ないなー。 …と思いつつも、たくま兄さんの部屋に荷物を移動。 ある意味、新鮮な部屋だった。 色とりどりの派手なスーツがずらりと下がり、ドアも天井も、中森明菜。 色あせた中森明菜のポスターが、所狭しと貼ってある。 たくま兄さんは元ヤン? 妙に寝苦しい夜だった。
6.やぎ狩り
人間よりも牛の数が多い島、黒島。 亘先生は、黒島に牧場を持っている。 「最近、野生のやぎが増えて困っているさぁ」 と、コップにオリオンビールを注ぎながら話し始めた。 野生のやぎ集団が、牧草を食い荒らしているらしい。 「あがやっ でーじ やっかいねぇ」 あらまぁ、それはとっても、大変ねぇ…と、ゆんたくおばさんマーコネエは 身を乗り出すようにして、やぎ話しを聞いている。 亘先生は困っているわりに、あまり深刻でもなさそう。??? 「駆除するしかないさね」 「何頭とれるかね」 「やぎ汁がうまいさね」 「においするけど、サイッコーよね!」 そうか…やぎを食べたいんだね…。 私はあの強烈なニオイがどうも苦手だ。沖縄民謡教室で、お正月にやぎ料理が出された時、 涙目でやぎ刺身を飲み込み、息をとめてやぎ汁をすすったことがある。 「アヤちゃん、お酒買ってきて」 と、亘先生から二千円を渡された。ビール調達係は私の役目。 すぐ隣の商店に行って、オリオンビールを買って戻ると、 「みんなでやぎ狩りに行くことになったよ!」と話しがまとまっていた。 亘先生の作戦はこうだ。 『やぎの群れを仕掛け網まで追い詰めて、生け捕りにする』 やけに単純な作戦だが、そんなにうまくいくのだろうか。 桟橋に集まったメンバーは7名。三線持参で登場したいつもの顔ぶれ…ミネさん、マーコネエ、大森君、 そして、亘先生の奥さんと息子も加わった。 黒島まで船に乗って30分。私たちも亘先生と一緒に、親戚宅で1泊させてもらうことになった。 作戦会議が始まった。 まず、息子がスクーターで追い詰める。 次に牧場内の石垣(塀)の下で待ち構えるA班が、仕掛け網にかかる前にここで1頭は確保。 B班は網にかかったやぎを縄でくくりつけて逃げないようにする。 実際に亘先生の牧場に行き、それぞれ所定の位置について確認した。 牧場は想像したよりはるかに広い。 同じB班のマーコネエと共に、不安を募らせた。 前夜祭は盛り上がった。 夕食は奥さんが作ってくれた「泡盛入りカレーライス」。これが絶品。 それぞれ持参した三線を弾き、1曲唄い終わるたびに「ハナハナー」と乾杯をして、酒を飲む。 「唄はこの辺でやめようか」となった0時まで、約5時間唄いっぱなし。 さらに、その後も宴会は続いたのだった…。 朝5時。 結局、一睡もできないまま迎えた頭の重い朝だった。 日が昇る前は少し肌寒い。上着をはおって外に出ると、すでに息子のスクーターはなかった。 ひとり冷静だった息子は、宴会でほとんど酒も飲まず、さっさと寝てしまっていた。 出発した息子と、亘先生は携帯で連絡を取り合うことにしたらしい。 A班とB班は軍手と縄を持たされ、ふたてに分かれて薄暗い道を進んで行った。 牧場の中に入る。まだやぎがやってくる気配はない。 A班は遠くのほうで、カウボーイのように輪投げの練習をしている。 ミネさんの「うひゃひゃ」という笑い声が楽しそうだ。 そんなのどかな光景が一変した。 亘先生が大声で「来るよーー!!」と叫んでいる。 スクーターのぶうんぶうんという唸る音が聞こえてきた。 息子がやぎの群れを追い詰めてきたのだ。 縄を振り回していたA班2人が、石垣に隠れ構えの体制に。 なんだか緊張してきた。 ドドドドドーッと地響きをさせて、やぎの群れが牧場に入ってきた。 かるく20頭はいる! 先頭のオスは、立派な角を持ち、長いあごひげを生やしている。ボスに違いない。 やぎ集団は牧場を轟かせ、石垣の塀と、A班2人の頭上も飛び越え、 仕掛け網も避けて、あっという間に逃げて行ってしまった。 「ああー!」無念そうな亘先生の雄叫び しーん。 静けさの中、息子が息を切らして戻ってきた。 なんと、子やぎを胸に抱えているではないか。 「ダッシュして、、タックルして、、捕ってやった」 とぜえぜえしながらしゃべっている。 私たちが呆然として、固まっている頃、ひとり追い続けていたのだ。 しかもスクーターではなく、自分の足で猛烈に走って、とっ捕まえたのである。 亘先生の家に連れ帰った子やぎは、すぐに人に慣れた。 哺乳ビンでミルクを飲ませてやる先生のことは、親だと思っているらしい。 ひざの上に乗ったり、「めえめえ」と甘えた声で鳴いて、トイレにまでついて行く。 おそるおそる聞いてみた。 「この子を食べたりしませんよね?」 「いやぁ、食べないさぁ」 と言うのでほっとしたが、 「メスだから大きく育てて子ども産ませて、それから食べるよ」 …すぐには食べない、そういうことか。
5.博士
知り合いから、ある人を紹介してもらった。 神奈川県鎌倉の出身で、八重山民謡もやっているという。 自分との共通点も多いようだし、ぜひ会ってみたいと思い、職場を訪ねてみることにした。 Kさんは海洋生物研究センターで働いていた。 関係者以外は、簡単に中へ入れそうもない雰囲気である。 受付でお願いをして、館内放送で呼び出してもらった。 首からIDカードを下げた、Kさんが玄関口まで来てくれた。 私のまわりにはいないタイプの、研究一筋な雰囲気の男性だった。 Kさんに展示室を案内され、なにか専門的な説明を受けたはずだが… ほとんど覚えていない。 なぜ海が青く見えるかわかりますか?とか、星砂って何だか知ってますか? そういう話しをしたような気がする。 ネクトン、ベントス、プランクトン… これは何だっけ? Kさんに招かれ、次の日曜日にお宅訪問することになった。 出迎えてくれたのは、黒髪の美しい奥さんだった。ベトナム美人である。 石垣島へ渡る3年前にベトナムを旅行したせいか、何か親しみを感じた。 奥さんは日本に来て間もないとのことで、まだ日本語がつたない。 旅行で覚えた挨拶、「シンチャオ!」と言うと、とても喜んでくれた。 ちなみにKさんはベトナム語もペラペラである。 Kさんの部屋には、いつでも弾けるような状態で、三線がおいてあった。 聞くところによると、石垣島に来る前は沖縄本島で仕事をしていて、 その頃に八重山古典民謡を習ったそうだ。 「わたしが八重山民謡を始めたきっかけはですね」 と、1冊の本を出してきた。あんぱるぬみだがーま、というタイトルの絵本だ。 あんぱる、は石垣島名倉湾のマングローブ地帯、みだがーま、はカニの名前のことを言う。 「八重山民謡にはカニの唄が2曲もありましてね。それを唄いたいばかりに、習い始めました。」 民謡を始めたきっかけがカニ、という人も珍しい。  あんぱるぬみだがーま節  あんぱるぬ ウリ みだがまでんどー ハイヒヘ マタハイヒヘ マタハイヤーヌカヌスィ  潮や干しゃ ウリ 下ぬ家かい ハイヒヘ マタハイヒヘ この唄には、15種類ものカニが登場する。 それぞれの色形、習性を歌詞にしていて、なかなか面白い。 男女掛け合いで唄うのだが、おそろしく高い音があるので、簡単に唄えるものではない。 Kさんが大切そうに出してきた、絵本「あんぱるぬみだがーま」は、まさにこの民謡を題材にしたものだ。 私が絵本のページをめくると 「このカニの“振り下ろす動き”が三味線を弾くように見えたんでしょうね。よく観察しています。」 …ぺらん、次のページ 「このカニは何かを運んでいるような動作をするので、給仕カニと唄われたのでしょう。」 …ぺらん、また次のページ 「このカニはピーピー言うそうですよ。まさに笛を吹くカニです。」 かならず、コメントするKさんだった。 絵本が終わると、今度は字がいっぱい書いてある専門書を出してきた。 もうついていけない。 Kさんの話しは上の空、勝手に「カニ博士」と命名して、心の中で膝をたたいた。 唐突に(きっと話しにオチがついたからなんだろうけど) 「さあ、唄ってみましょうか!」と言われ、一緒に「あんぱるぬみだがーま節」を唄った。 さらにカニ博士は、「やぐじゃーま節」という、もう一つのカニソングを一人で唄った。 初めて聴く「やぐじゃーま節」も、メロディーが変わっていて楽しかった。 楽しそうに唄うカニ博士が良かった。 その日、貴重な体験をさせてもらうことになった。 アンパルのカニ調査に同行、である! 車で10分も走ると、名倉湾が見えてくる。 車を降りて、博士から借りた長靴に履き替え、ぬかるんだマングローブ地帯へ入って行った。 博士は小さな小さなカニを、ひょいひょい捕らえては、透明ケースに入れた。 数ミリしかないカニを見つけるのが精一杯で、結局出る幕のないまま、カニ捕りは終了。 さて、次なる作業開始である。 大きく頑丈そうなバッグをパカッと開け、ものさし、シャープペンを取り出し、用紙をバインダーにセッティング。 「わたしが言う数字を書いて下さい。」 と、そのバインダーを渡された。 博士はケースのカニをひょいっとつまみ上げ、専用のものさしで測る。 「オス、5ミリ」 「はい」…オス5ミリと用紙に書き込む。 「メス、タマゴ、8ミリ」 「はい」おお、タマゴなんていうのもあるのか。 「終わりました。じゃあ帰りましょうか。」 えっもう?助手として、もっと活躍したかったのだが…。 物足りない助手の気持ちが伝わったのか、後日“宮良川のカニ調査”にも同行させてくれたカニ博士でした。
C4.アブラ虫?
稽古の後は、かならず宴会となる。亘先生の家で大いに盛り上がった日には、そのまま勢いで繁華街“美崎町”に繰り出す。 行くのはたいがい民謡スナックA、先生の気分によっては民謡スナックB。 ステージに上がって唄ったり、早いリズムに乗って乱舞するモーヤーをやったり、 「マスター!キジムナーチョンチョンやって!」 たいてい、島のオジイからリクエストが入る、「キジムナーチョンチョン」を大合唱。 ゴム製の面を頭からすっぽりかぶり、「チョンチョンチョンチョン♪」と唄い、ぴょんぴょん踊る。 島人のはじけっぷりが気持ちいい。 チョンチョンが耳から離れないまま、また帰宅が深夜になった。 「遅くなったときは自分で開けてね」 と、苦笑いのオーナーから渡されたスペアキーで、玄関を開ける。 暗くなった食堂を抜け、1階の一番奥にある自分の部屋までそーっと歩いて行った。 ドアに手をかけようとして、「うっ」と思わず声が出た。 ぼんやりとした照明に、くっきりと浮かび上がった、巨大な物体。 ドアノブの横にへばりついたゴキブリの姿に、硬直して動けなくなった。 気持ち悪いけど目が離せない。 ちょっと育ちすぎだよ!というくらい大きい。 足も長いみたいで、立体感が出ている。その分また大きく見えるらしい。 基調カラーはライトブラウン、首には白いマフラーをしているように、色分けされている。 …こんなゴキブリ、いやだ!! 人をこばかにしたように、触覚をじりじり動かして、その場を動こうともしない。 へたに刺激して飛びつかれても困るので、見つめつつ、後ずさり。 再び玄関を出て、ホットスパーに向かった。 一番強力そうなジェットスプレーを買って戻ったが、ゴキブリは姿を消していた。 どこかでケケケと笑われていそうで、こわかった。 オーナーもゴキブリには手を焼いているらしく、「バルサン、たいてみようか」と言い出したので焦った。 バルサンなんかたいちゃったら、ヤモリまで死んでしまう。 部屋には、大きいヤモリのヤモさんと、小さいヤモリのヤモちゃん2匹が暮らしていた。 毎日彼らの姿を探して、天井にいる、エアコンの裏にいる、と居所を確認すると安心できた。 夜になると「きゅっきゅっきゅっ」と鳴いて、楽しませてくれていた。 仕方ない、ゴキブリはあきらめるしかない…。 オーナーに、バルサンをたくとヤモリまで死んでしまうからやめてほしい、とお願いした。 「でもヤモリが嫌いなお客さんもたくさんいるからねー」 「オーナー、ヤモリは家を守ると言って、とても縁起がいいんですよ、殺したらだめです」 風水や占いに凝っているオーナーは、このテの話しには弱い。 バルサンをあきらめて、窓の隙間にテープを貼ってみたり、網戸を直したりして、 ゴキブリの侵入を防ぐことにした。 でも、ゴキブリって飛ぶから…。残念ながらあまり意味のない作業だった。 ゴキブリと共生するしかない。慣れるしかないのだ。 それに成功?した人たちの体験談をいくつか紹介しよう。 ○石垣島に移住して2年の由美ちゃんの話 「アパート入居してすぐの話しなんだけど、キッチンの掃除をしてるとき、 流しの下の戸を開けたら、真っ黒になっていて、何だろうって思ったら、 それが全部ゴキブリで、蚊とかハエ用の殺虫剤しかなくて、 なかなか死んでくれないけど、やるしかないからスプレーし続けて、 ようやく死んだゴキブリはほうきで掃いて、ちりとりで取って捨てたんだ。 100匹はいたかな。」 ○旅行で来ていたトモちゃんの話 「違和感があって、夜中に目が覚めたら、 人差し指にゴキブリがしがみついてました。 あの日からゴキブリ見ても、あ、いる、と思うだけで 何の感情も働きません。」 ○島人ミネさんの場合 「ゴキブリ?アブラ虫なんてこわくないさー。山のは食べられるって。」 ○番外編:実家の母の場合 ゴキブリ捕りの名手である。両手ききの母は、左に持ったスリッパで一撃をくらわしてから 右に持ったスリッパでとどめを刺す。 天井にいる場合でも、スリッパを投げて命中させて、落ちたところでとどめを刺す。 最後には「ほら、捕れたわよ」と触覚を持って、ぶらんとさせたゴキブリを必ず見せにくる。
3.小浜島
毎日雨ばかり降っている。 「こんなに雨が降るなんて珍しいよ。コジマさんついてないね。」 ペンションのオーナーに不運を指摘されるのが残念なだけで、雨の日は嫌いではない。 雨のしずくで輝くフクギの葉たちをながめながら、亘先生の家へてくてく歩いて行った。 2日に1曲のペースで、次々と八重山民謡を教えてもらっていた。 亘先生(ときには大森君)が、まず見本で唄ってくれる。工工四(くんくんしー)という楽譜を目で追って、先生たちの唄についていく。 その繰り返しで、なんとか唄えるようになってくる。 一番最初に習った八重山民謡は「鷲ぬ鳥節」だった。 石垣島の誰もが知っている、最もスタンダードな民謡だけれど、発音が難しくて苦労した。 「鷲ぬ鳥」とは、「鷲の鳥」ということ。  ばすぃぬとぅるぃ節  あやぱにば まらしょうり ぶぃるぱにば すぃだしょうり  しょうがづぃぬ すぃとぅむでぃ ぐわんにつぃ あさぱな  あがるぃかい とぅぶぃつぃけ てぃだばかめ まいつぃけ   「アヤちゃん違うでしょ、るぃー、だよ。」 「りーー」 「るぃーっ!」 すべてがそんな感じで、何度も亘先生に直されたけれど、「ぶぃ」はあきらめた。 沖縄民謡では経験してこなかった壁がもう一つあった。 八重山民謡独特の、微妙な音程だ。 中近東の音楽に“四分の一音”というのがあるらしいが、たぶんそういう音だ。 たとえばドレミのドの音に3種類あると想像してほしい。 「これは上尺だから少し上げて。ああ、それじゃ上げすぎ。」 「こんどは下尺だからもっと下げて。もっと下げる!」 何回も聴いていると、音の違いがわかってくる。 でも実際自分で唄うとなると、3回に1回成功するかどうか、という感じだ。 まだ使っていない体の器官があるとみた。 亘先生がいつにも増して熱心に教えてくれた「小浜節」という唄がある。  小浜節  小浜てぃる島や 果報ぬ島やりば  大岳ばくさでぃ 白浜前なし 小浜島には大岳という小高い場所があり、そこから見た景色と島の美しさを称えた民謡だ。 ゆったりとしたテンポで、旋律は押しては返す波のよう。 唄のクライマックスでは山を登るように高音へと上がって、今度はゆるやかに下りてくる。 「小浜節」に初めて出会ったときは、あまりに旋律が美しくて、頭がくらくらした。 めずらしく朝から太陽が照りつけた日、「小浜節」が生まれた場所に行ってみることにした。 高速船で石垣港から25分。小浜島行きの船はガラーンとしている。観光客は私だけのようだ。 当時は、ドラマちゅらさんの放映前で、小浜島を観光する人はほとんどいなかった。 大きなリゾートホテルもなかったし、のどかで静かな島だった。 ひとり港から歩き出して行くと、遠くに大岳らしい山の景色が見えていたのでほっとした。 とにかく大岳を目指して歩こう、と炎天下の坂道をのろのろ進んで行った。 強い日差しと高温で、めらめらしている一本道を車が一台、港に向かって走ってくる。 人の気配を感じたのはその時くらい。ヤギとは何回も目が合っているけど。 だんだん不安になってきた。 だいぶ歩いた気がするのに、ちっとも大岳は近くならない。 ひょっとして、今日中にたどり着けなかったりして? ようやく、畑仕事をしているおばさんを発見したので、「大岳まで何時間かかりますか?」と聞いてみた。 おばさんは、ハ?という顔をして 「これが大岳だけどね?」 と目の前を指して言った。えー?じゃ私が目指していた山は何だったんだ? それはお隣の島、西表島に連なる山々であった。 おばさんに出会えなかったら、海に出るまで気づかなかったかもしれない。 おばさんと一緒に笑って、急に元気が出た。 こんもり小さな大岳を、一気に登った。 足場が悪く、急な階段もあったりして、展望台に着いてから、しばらく息が乱れていた。 小さな展望台から、青い海を眺めた。海にぽっかり浮かぶ小島。 唄の生まれた250年前と、私は同じ景色を見ているんだろうか? 誰もいないことだし…展望台で「小浜節」を唄ってみた。 1番を唄いきってぐったりした。 余談だが、この1年半後、八重山民謡コンクールの課題曲に「小浜節」が選ばれた。 この日を思い出して唄い、合格することができた。 しかし、コンクール直後に、どんでもない事件がおこったのだが…。 そのことはいずれまた。
2.かちねこA石垣島へ
そういえば、出発の日も雨が降っていた。 両親には「とりあえず3ヶ月の予定だけど、もしかしたら1週間で帰ってくるかも。」と弱気な言葉を残し、石垣島へ旅立った。 八重山古典民謡を本場で学びたい、という気持ちだけで、 何かアテがあるわけではなかった。  気持ちが大きくなっている頃に予約した、キッチン付のペンション。 自炊ができるのはありがたかったが、どうもテンションのあがらない宿であった。 風水とカラオケに夢中なオーナーは、私の誕生日が気になって仕方ないらしい。 となりの部屋には、もうすぐ死んでしまいそうな「東京下町のラブホテル王」と、 オーホッホッホの笑い声が響く“二人”の愛人。そして毎日降り続く雨。  1週間たっても、民謡教室がみつからない。 本気で帰ってしまおうかと思ったその夜、「八重山舞踊発表会」のポスターが目につき、のぞいてみることにした。 小さな会場は人がまばらで、どこへでも座ることができた。 舞台の両側に火がともされ、「赤馬節」の演舞が始まった。 あーやっぱりいいなー、まだ帰るのは早いよなー。 すべての演目が終わっても、まだ余韻で立ち上がれない私に、 「好きなんですね。観光ですか?」 と一人の女性が声をかけてくれた。見かけない人がド真ん中の席でかじりつきだったので、気になったのだと言われた。  埼玉から移住したという美千代さんに、民謡教室のことを相談してみた。 すると、 「ちょうどこの裏に民謡研究所があって、私はそこの生徒だから、よかったら先生に連絡しましょうか?」 と、美千代さんはその場で電話をしてくれた。運命的だ、と思った。  会場を出て、ひとつ角を曲がると「民謡研究所」はあった。 「せんせー 来たよー!」 バイーン!木戸を勢いよく開ける美千代さんの後にくっついて行った。 家に入ってギョッとした。 ぐちゃぐちゃに散かった部屋の中に埋もれるようにして、パイプをくわえた先生らしき人物が座っていたからだ。 真っ黒な顔のギョロギョロした目が私を見ている。 はっきりいって怖い。魔除けのシーサーそっくりじゃないか。 さっきまでの決心があっけなく崩れそうになった。  「こっちに入りなさい。」とニコリともしないで言った。  「三線ははじめてじゃあないね。」   「はい、沖縄民謡を習ってました。」石垣島へ来る前は、会社帰りに週2回ほど、沖縄民謡教室で唄と三線を習っていた。  「よし、なにか唄ってみなさい。」 ぐいっと三線を差し出された。なんだか怖いので、唄ってさっさと帰ろうと思った。 初めて覚えた沖縄民謡「安波節」を唄い終わると、これまた予想外な展開。  「うまいね。明日から来ていいよ。毎日来てもいいさ。」 先生は笑顔になると、やさしいオジイそのものだ。竹富島でたくさん見てきた愛嬌のあるシーサーに見えてきた。先生の家にはネコもいた。  翌日から亘先生の家まで、ペンションから片道40分ほど、てくてく歩いて行った。 よそ見をしなければ25分くらいで着くのだけれど、赤瓦のおうちを眺めたりするのも楽しい。 毎日歩く道を変え、遠回りして通った。 稽古は16時から、なんとなく始まる。先生が昼寝をしている場合は、骨折して休職中の大森君が代わりに教えてくれる。 顔立ちでナイチャー(本土の人)とわかるが、島人を唸らせるほど、とびきり唄が上手だった。  「だいぶ慣れてきたよ」 と言って、ギブスの右手で三線を弾く。 慣れたようには決して見えないロボットのような、ぎこちない動きだったが、ちゃんと弾けるのだからすごい。 そこまでして三線を弾こうとする根性がもっとすごい。 それだけではない。 夜中に桟橋で絶唱しているとか、朝の5時に彼のアパートから唄声が聞こえてきたとかいう、筋金入りだ。  「大森君みたいに努力しなさい」 と亘先生に言われたけれど、そりゃ無理ってもんだ。  「あぃーがんばってるう!」と、18時をまわると、威勢のいいおじさんがやって来る。 続いて話し好きのおばさんもやって来ると、先生のおうちは急に騒がしくなる。 ゆんたく(おしゃべり)して、少し唄うと、もう稽古は終了。 唄っていてもお構いなしで、奥さんが机の上をドバーッと片付け、先生がビールのグラスを持ってくれば、稽古は終了なのだ。 いつもそうやって、なし崩し的に宴会へと突入する。  「わたしはお酒が弱いからもう飲めない」 と言っても、酒豪たちの島では通用しない。  「酒に弱いのは飲み慣れてないからさ。もっと飲めばいくらでも強くなる」  「島の酒を飲まないと唄はうまくならないさ!」  「あぃー飲んでー!!」 ああ。今夜も真っ赤になるまで泡盛を飲まされた。ペンションは、遠かった。
1.八重山の唄に出会うまで
 沖縄民謡教室で唄と三線の勉強を始めて一年になる頃、仕事の契約が切れて自由の身になった。 この機会に、しばらく沖縄に行ってみたい。 趣味で始めた習い事だったが、週2回の稽古では物足りなくなっていた。 唄の生まれた沖縄で生活してみたいという気持ちが強くなっていた。  師匠に相談すると、「それはいい」と積極的に力を貸してくれた。 有名な女性歌手が唄の指導を、琉舞の先生が生活すべての面倒をみてくれることになった。 完璧なシナリオに、夢はいっきにふくらむ。 沖縄民謡歌手こじまあや誕生か?!なんちゃって、あはは、るんるん。   そんな夢もあっけなく消え去った。 「師匠に不満があって辞めるらしい」という噂が流れ、それが師匠に耳に入った。 怒り心頭の師匠に、数人の生徒と共に呼び出された。 一緒に仲良くやってきたと思っていた仲間たちの“証言”によって、 師匠の心は完全に閉ざされた。 沖縄民謡留学計画はすべて白紙に。 もちろん民謡教室も続けられない。 あの日の出来事は、今でもぞっとする感覚として残っている。 これが那覇へ出発する前日におこった事件なのだから、よほど日ごろの行いが悪いとみえる。 調子に乗りすぎなんだな。   翌日、しょぼくれた状態で沖縄本島入りした。胃がきりきりと痛み、食欲もなかった。 来てしまったけど、これからどうしたらいいんだろう。 トボトボと、沖縄の太陽に不似合いな自分が、那覇の街をさまよい歩く。 何を求めて歩いているのか、わからなくなる。ふらふらと桜坂の「足もみ屋」に入った。 「かなり疲れてますね」 ほんとに疲れた。でもすぐに帰郷するわけにはいかない。 「仕事もアパートもコネがないと難しいですよ」 足をもみもみしてくれる原田君は、徳島から移住してきたらしい。 彼もはじめは大変だったそうだ。   その晩、原田君が「足もみ屋」に友達を集めてくれた。今までの経緯はいっさい 話していないのに、みんなとっても親切で心優しい人たちだった。 なかでも同い年のりっちゃんは、仕事が見つかるまでウイークリーマンションにいる なんてお金がもったいない!と言って、うちにおいでおいで、とすすめてくれる。 「那覇から離れてるけど、うちにおいでよ!」 友達になったばかりの私に、同居生活をしてもいいと言ってくれる。 その気持ちがうれしくてうれしくて、すぐに引っ越すことにした。    朝と夕方は必ず渋滞する道路を越えると、りっちゃんのアパートが見えてくる。 すぐ近くには米軍基地があり、戦闘機が飛ぶと窓がガタガタと激しく振動する。 電話で相手の声が聞こえなくなるくらいの爆音が響くのだ。 りっちゃんは「こどもが泣き止まないって友達が言ってた」と、この音に慣れた様で言う。  りっちゃんの出勤時間に合わせて、自分も一緒にアパートを出る。 那覇へ向かうバス停まで少し歩いて、遅れてやってくるバスを待つ。長い一日がまた始まる。 わざわざ沖縄にまでやってきて、私は何をしたいんだろう? 大和人の自分が沖縄民謡をやってどうするんだ? あいかわらず何の手がかりもなく、気持ちに焦りが出てきた。 沖縄の空の下で唄っていたい、というあの頃の気持ちをすっかり忘れて、余裕がなく ぎすぎすした自分。  見兼ねたりっちゃんたちが、ドライブに連れ出してくれた。 このとき思い出した。沖縄の青い海を見ていなかったこと、三線を忘れていたことに。 三線を実家に忘れて沖縄に来ていたなんて、1ヶ月間ずっと気づかないで生活していたなんて、 かなりの重症。 でも、そのことでふっきれた。 さいごに旅行をして帰ろう。 まだ八重山へ行ったことがなかったので、石垣島と竹富島を旅行することにした。 竹富島では感動の連続。水平線に沈む太陽、月の明かりで夜中の散歩、桟橋で寝転がって見た 夜空はほんとうにきれいだったなー。 竹富島と石垣島で耳にした民謡も良かった。今まで自分が習ってきた沖縄民謡と比べると、 もっと素朴で土臭い感じがする。 八重山の空気にピッタリと合っていて、この唄はこの島で生まれたんだな、と実感することができた。 旅行を終え、沖縄さいごの夜。那覇の飲み屋でお別れ会をしてもらった。 ここで運命的な出会いがあった。 別テーブルに三線のうまいおじさんがいて、一緒に「安里屋ゆんた」をうたい、仲良くなった。 おじさんの話しで、竹富と石垣で聞いた民謡が“八重山古典民謡”なのだと知った。 八重山古典民謡は沖縄民謡のルーツにもなっていて、「唄は旅をする」のだとも教えてくれた。 おじさんはウチナーンチュだけれど、沖縄東京の往復生活をしているらしく、 言葉にほとんど訛りがない。 「島人は自分の島の唄をすごく愛しているから、ほかの島の唄をやろうとは思わないよ。 あなたは島人じゃないことを逆手にとって、島人のできないことをやったらいい。  沖縄本島、宮古、八重山それぞれの島にいい唄があるから、いろいろやってみるといいよ。」 元気いっぱい帰ってきた私を、いったいどうなってるの? という顔で家族は迎えてくれた。 「今度は石垣島へ行く」と言うと、ますます驚いたが、内心ほっとしたようでもある。 なぐさめや励ましの言葉を考えていたらしい。 その3ヶ月後、三線片手に石垣島へ旅立ったのだった。
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